心身の傷抱え運動紡ぎ 「ノーモア・ヒバクシャ」訴えた先達―今夜、平和賞授賞式・日本被団協―

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  • 2024年12月10日

  【オスロ時事】日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が10日(日本時間同日夜)、ノルウェーの首都オスロである。受賞の背景には、重いけがや病気、家族を失った悲しみを抱えながら運動をけん引し、他界した被爆者らの尽力があった。

  「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」。1982年6月の第2回国連軍縮特別総会で、日本被団協の山口仙二代表委員=2013年、82歳で死去=は各国代表を前に声を振り絞った。

  長崎市の爆心地から約1・1キロで被爆。上半身に重いやけどを負い、顔にケロイドが残った。肝機能障害など病気や就職差別に苦しみ、自ら命を絶とうとしたこともあった。著書に、特別総会での演説前も体調が悪く、点滴を受けて臨んだと記している。

  56年に長崎原爆被災者協議会結成を呼び掛けるなど、運動の組織化にも注力。「自分の力ではどうにもならず死へ追い詰められた被爆者がたくさんいた。反核・平和、被爆者救援こそ私の願いだ」と語っていた。

  同じ長崎の被爆者で、「赤い背中」の写真を掲げて証言した谷口稜曄さん=17年、88歳で死去=も、代表委員として奔走した。原爆で大やけどを負い、胸は床ずれのため深くえぐられたままで、自身を「戦争と原爆の生き証人」と表した。

  写真は70年、米国国立公文書館で見つかった、背中一面のやけどの治療を受ける少年時代の谷口さんの映像から切り出したものだ。

  常に病苦と闘いながら「二度と被爆者を生まないため運動してきた。核兵器を一発も残してはいけない。見届けなければ安心して死ねない」と話していた。  

 「お母さん、僕も後から逝くからね」。広島で被爆し、代表委員を務めた岩佐幹三さん=20年、91歳で死去=は、猛火が迫る中、自宅の下敷きになった母を置いて逃げるしかなかった。妹は遺体も見つからず、父は既に他界しており孤児となった。

  「母や妹のような死を誰にも味わわせたくない」との思いで、政府との交渉や座り込みなど前線に立ち続けた生涯だった。

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