当選回数12回。44年6カ月にわたる町議人生は、白老町議会で史上最長を誇る。長らく町議会の重鎮として特に財政問題などに鋭いメスを入れてきた。左派政党に所属しながらバランス感覚にも優れ、与党系議員からも一目置かれた。議員の職から離れた今、自身の半生を振り返る。
芦別市の中心市街地から南に10キロほどの地域、川岸地区の野菜農家で7人きょうだいの6番目として生まれた。当時の芦別は炭坑の町として大いににぎわっていた。早朝に、もいだばかりのキュウリやナスなどの野菜をリヤカーに積み、母や3歳上の兄と芦別川の谷を上り下りして野菜を売り歩いたという。夏休みも、こうした暮らしは続いた。両親については「優しかった。怒られたという記憶はない」と語る。
川岸小学校時代は川遊び、頼城(らいじょう)中学校時代は昆虫採集が趣味だった。金属光沢の外骨格を持つオオルリオサムシや春の女神の異名があるヒメギフチョウなどの採集に夢中になった。こうした経験は、後の自然保護活動にも影響する。
高校は、全校生徒が1000人を超える芦別高校に入学。「家業を助けるため進学を諦めた兄に代わって入学できた」と目を細める。三井鉱山株式会社芦別鉄道が前身の三井芦別鉄道(1989年廃止)に乗り、起点の玉川停留場から終点の芦別駅まで約10キロの道のりを揺られた。
高校を卒業した65年には白老町の大昭和製紙(現・日本製紙白老工場)に勤務する。当時は高度経済成長期の真っただ中で初任給は1万5080円。即席ラーメンが1杯35円の時代だった。会社では、木のチップをパルプにしたり漂白する工程を担当。そんな中、入社同期の社員が業務上の事故で亡くなった。会社の事故対応への不満をきっかけに政治参加に思いが募り、自民党や当時の社会党など五つの政党に500円を同封して資料請求したが、共産党のみから返信があったという。
75年、町議選に共産党公認として28歳で初当選。2期目の79年は落選するものの、83年に返り咲いて以降は連続当選し続けた。2023年の選挙で議席を失い勇退した。
町議時代で印象に残っているのは、1990年代に北海道全体を揺るがしたゴルフ場問題。勤めていた大昭和製紙が町内でのゴルフ場建設を計画し、自然を愛する町民らに個人として加わり、建設反対の論陣を張った。「ゴルフ場問題は環境破壊に対する怒りだった。議会では誰のための政策、どの立場に立つ政治なのかを問うてきた」と大渕さん。「何にでも反対してきたつもりはない。議会は合意形成の場。町の考えを引き出して記録に残すための質問力を磨いてきたつもり」
(半澤孝平)
◇◆ プロフィル ◇◆
大渕 紀夫(おおぶち・のりお) 1946(昭和21)年11月、芦別市川岸生まれ。芦別高校卒。町議時代の2020年には人口減少に対応する政策研究会で座長を務めた。切手の収集を12歳から65歳まで続けていた。現在の趣味は読書。白老町竹浦在住。