2008年4月20日に、ネパールから来た青年は新千歳空港に降り立ち、初めて日本の地に足をつけた。ネパールとは環境も言葉も全く違う異国での仕事。不安もあったが、空港で次の行き先が分からず困っていた自分に、折りたたみ式の携帯電話を貸してくれた日本人の優しさに「この国でも暮らせるな」と直感した。それから約16年。今は苫小牧市内で従業員約20人を雇い、飲食や農業、人材派遣を手掛ける会社を経営する。
1982年にネパール西部のルンビニ州ブルミー地方の「パオディアマライ」で産まれた。村は自然が豊かで、ヒマラヤから流れ出た河川と山に囲まれた高地地帯。「水の流れが良くて。米や麦をみんな栽培していた」。村を貫く大通りだけが、より高地の村々と首都カトマンズをつなぐ唯一の道。その道沿いに宿が立ち並ぶ「宿場」でもあり「ジャガイモとかを持って、山の方から売りに来ていた」と懐かしそうに振り返る。
高校卒業後移り住んだカトマンズで、大きな転機が訪れた。「お金を稼げる仕事を」とIT技術を学ぶはずだったが、アルバイト先の自動車販売店で外国から部品を買い付ける仕事にのめり込んだ。「故郷にはほとんど車がない時代。車を見て触れるのが面白かった」。マレーシアに渡りオーディオ部品からブレーキパッドまで、部品とあらばなんでも買い付けてまわり、ネパールとの間を往復する生活を2007年まで続けた。
日本に来たのは、全く偶然の誘いから。自分の仕事ぶりを知った日本人から「外国語が話せて、輸出入に関する知識がある」ことを見込まれ、道内で仕事をしないかと誘われた。当時の日本車は、信頼性が高く憧れの的。それを造る国に行けるならと「ぜひ仕事をしたい」と二つ返事で引き受けた。
マレーシアとは違う通関手続きなどに苦労しながらも、翌09年には独立した。会社では中古自動車の販売に加え、当時は少なかったネパール、インドカレーの店も展開。14年ごろには、全国に19店舗も構えるチェーンに拡大させた。中古車輸出の落ち込みや、カレー店の行き詰まりで「会社を残せるか毎日悩むこともあった」と話すほど、浮き沈みも経験。それでもがむしゃらに働き、農業分野や人材派遣分野にも手を広げ、会社を守って来た。
これから挑戦したいことは、まだたくさんある。会社としては、アジア圏で食べられている食材を日本国内で生産や加工を始めるのが目標。肥料生産などの農業技術をネパールに持ち帰り、母国に還元したいとも思っている。そしてそのうちの一つには、12年から住み始め「第二の故郷」とも話す勇払地区の活性化もある。
「勇払は人と人との距離が近い。話すと故郷の年配の人としゃべっているよう」とほれ込み、一軒家を購入して家族と生活する。近年は人口減少が進む同地区だが「住みやすくて、仕事を終えて帰ってきたらゆっくりできる町。すごく大好きなところなんです」と思い入れは深い。この6月からは同地区で、自身がオーナーの地域で初めてのカレー店も開いた。「地域のまつりや商工振興会にも参加して、地域を盛り上げていきたい」と持ち前の笑顔で話し、地域の盛り上げ役も担っている。(中田大貴)
◇◆ プロフィル ◇◆
ビシュヌ・ギリ 1982年4月、ネパール・ルンビニ州生まれ。2001年から同国の自動車販売店で働き始め、08年から日本に移り住んだ。経営する会社では外国人労働者の人材派遣などに加え、カレーチェーン「ルンビニ」グループも展開する。苫小牧市勇払在住。