竹下さんが被爆遺品を寄贈(きぞう)したことで作られた銭座小学校の「被爆資料展示室」。竹下さんの要望で遺品は直接触(さわ)れるという=長崎市、銭座小原爆による熱線で一瞬(いっしゅん)にして表面が溶け、気泡(きほう)でおおわれた屋根の瓦(かわら)に触ってみる=長崎市、銭座小 1945年8月9日、長崎に原爆(げんばく)が落とされて今年で80年になります。約500人もの命が奪(うば)われた長崎市立銭座(ぜんざ)小学校(末永功(すえながいさお)校長)には、被爆(ひばく)した日用品などを集めた被爆資料展示室があります。平和学習に力を入れている同校では今年3月、卒業生である80代の被爆者と30代の被爆3世を講師に、5年生(現在6年生)が特別授業で学びました。
▽実践してきた2人
昨年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。今後、被爆者の意志を継(つ)いで、核(かく)兵器の恐怖(きょうふ)について世界に発信するのは、唯一(ゆいいつ)の戦争被爆国に生まれた私たちの役割かもしれません。
2人の講師は、自分たちに何ができるか考え、行動に移してきた体験を語ってくれました。
▽遺品や遺構は語り部
竹下芙美(たけしたふみ)さんは、被爆者がいなくなった後、原爆の恐(おそ)ろしさを次世代に伝える語り部(かたりべ)は、被害の痕跡(こんせき)を残す被爆遺構や遺品だと考え、保存活動をしてきました。
原爆投下の5日後、疎開(そかい)先から長崎市の自宅にもどったことで放射能にさらされて被爆し、病気に苦しんできました。遺構の保存活動を始めたのは40代のころ。沖縄への旅で、アメリカ軍との地上戦の中、少女たちが隠(かく)れた海辺の岩が、小さな石にすぎなかったのを見てショックを受け、それがきっかけになったそうです。
遺骨や遺品の発掘(はっくつ)も始め、「人の骨なのか土なのか分からないから、手袋(てぶくろ)を外して手で掘(ほ)った」と、涙(なみだ)があふれた当時の気持ちを話しました。集めた食器やボタンなどの日用品は、戦時下にも小さな幸せがあったことを訴(うった)えかけてきたと言います。
もう一人の講師、林田光弘(はやしだみつひろ)さんは、被爆前の長崎の日常をとらえた写真を集めて、積極的に平和教育を展開しています。
▽奪われた日常を実感
子どもたちは、話を聞きながら、原爆投下前と投下後の自分たちの学校の写真を見比べたことで、戦争で奪われたものの大きさを実感しました。
「(竹下さんが)防空壕でおままごとをしていた話が印象に残った」「(写真を見て)原爆が落とされたらこうなるのかなと、すごく怖いし、いやだった」など。感想文からは、原爆が奪った日常を思い、自分ごととしてとらえたあとが見てとれます。
最後に竹下さんは「きょうの話を思い出すことがあったら、自分に何ができるか考えてほしい」と、子どもたちに平和のバトンをつなぎました。
(記事と写真・岡本央(おかもとさなか))
講師の話に聞き入る子どもたち。林田さん(左)は日ごろ、「日常」に着目した平和教育を進めており、共感した竹下芙美さんと銭座小の先生が働きかけて特別授業が実現した=長崎市、銭座小(同小提供)