大学は数々あれど、世界最高の頭脳が集まるのはMIT(米マサチューセッツ工科大学)だと信じている。ボストンのチェルシー川に面するMITの白亜のドームを訪れるたび、なんだか胸が高鳴る。4月11日、当社はMIT環境土木工学部のフランツ・ウルム教授の研究チームと電子伝導性炭素セメント材料「蓄電コンクリート」を共同開発することで提携した。
コンクリートは電気を通さない絶縁体だ。しかしカーボンブラックという炭素微粒子を配合するとコンクリート内の空隙に幾何学状の構造が生まれ、コンクリートを電気が通る伝導体に変えられることをフランツたちは発見した。さらにこの素材に電極の構造を持たせることで電気を貯蔵できるコンデンサー型の蓄電池へと進化させる方法を考案した。
世の中で水の次に大量に使われているコンクリートがバッテリーの役割を担うことになったら、エネルギーの在り方は一変する。6年越しの彼らとの技術交流が実を結び、当社はMITのラボで生まれた画期的なテクノロジーを実社会で使える産業製品に育て上げる機会に恵まれた。早ければ6月末にも研究チームが北海道に乗り込み、日米をまたいだR&D(研究開発)がスタートする。
開発の実質的な指揮を執るのはアドミール・マシック准教授。アメフト選手のように大柄で屈強な、心優しい青年だ。アドミールの家族はボスニア難民だった。1990年代のユーゴ解体とその後の内乱でバルカン半島からドイツに逃れ、その後イタリアのトリノに定住した。「1日48時間勉強したよ」と笑って話すが、子供の頃の努力は相当なものだったろう。米国に渡り、縁あってフランツの研究チームに合流、いまや未来を変える先端素材のカギを握る。
米国のテック関係には、難民の出身者が少なくない。当社がエンジンドローン開発で最初に組んだMIT系ベンチャー「トップフライト」のロン・ファンCEOはベトナム難民だった。家族と共にハワイのパールハーバー近くに落ち延び、貧しさを乗り越えるため猛烈に勉強してMITにたどり着いた。彼の恩師のサンジェイ・サーマもインド出身の移民1世ながらMIT副学長へ登り詰めた。紛争や貧困といった厳しいバックグラウンドが根っこにあるハングリー精神と多様性こそ、MITが輝き続けるパワーの源といえる。
「ウチの社内で幾つの言語が話されていると思う?」
MITの仲立ちでアンモニアを水素に転換する光学触媒の分野で提携したシジジープラズモニクスの創業者スーマンと、ヒューストンのバーで飲んでいたときのことだ。「10カ国語くらい?」と返した私に、彼はニッコリ笑って「29」と誇らしげに答えた。
スーマンはネパールの山奥の極貧の村の出身。親戚中でお金をかき集め、村で一番頭の良かった彼を決死の思いで米ライス大学に送り出した。彼の興したベンチャーは脱炭素時代の波に乗り急成長。本人が戸惑うほどの人生の激変、そして決して忘れない故郷のひとびとへの思いに、目頭が熱くなった。
これから始まるMITとの蓄電コン開発チームには、本人のたっての希望でミャンマー出身のラ・ミントンを加えた。ヤンゴンの工科系大学の卒業生を私が現地で直接採用した20代の秘蔵っ子だ。ギラギラなのに澄んでいたあの時の目を、忘れない。
(會澤高圧コンクリート社長)