苫小牧ですしを握り44年。常連客から「苫小牧のすし屋といえば『魚徳』」と言われるほど、市内外から多くの人が魚徳のすしを味わいに来る。「お客さんに助けてもらって店を続けられた。お客さんがお客さんを連れてきてくれてね」。古希を過ぎてもカウンターにたち、真剣なまなざしで腕を振るう。
山あいの日高町千栄で、5人兄弟の末弟として産まれた。父とは10歳の時に死別。食堂を営む母の手で育てられた。小さなころから運動神経が抜群で、中学校に入ると野球に打ち込む。プロ野球巨人の長嶋茂雄に憧れ、チームでは1番サードでキャプテンも務めた。
すし職人の道を歩み始めたのは偶然。一部の高校からは野球推薦で進学の誘いもあった。ただ兄弟はすでに日高を離れ、地元には母独り。経済的負担も考え、同じ日高管内での自立を選んだ。「住み込みで一つ上の先輩も働いていたから浦河町のすし屋に入った。それが違う仕事だったら、すし屋にはなってないね」
1968年から働き始めたすし屋は地域の人気店。盆や正月は朝から晩までシャリを炊き続けた。1日15時間は働き、休みは月2日だけ。「今じゃ大問題だよ」と振り返る。3年間、すしを握ることなく下働きを続けたが「これでは仕事を覚えられない」と先輩のつてを頼り首都圏に出て、東京・新宿や江の島(神奈川)など幾つかのすし店で修行した。
今につながる料理の基礎を学んだのは、東京・吉祥寺に本店があった割烹「魚徳」。75年から同店で働き、支店に移ってからは仕入れも担当した。週3回は築地市場に行き、魚の目利きを学んだ。「支店の若旦那に公私ともどもお世話になった。今、お店で出すタイの姿焼きからキンキの煮付けまで、魚徳で学んだ基本が生きている」と懐かしそうに語る。独立時には「魚徳」の名前ももらい受けた。
80年6月に苫小牧市木場町(現緑町)に27歳で「苫小牧魚徳」を開業。母や兄が移り住んでいた苫小牧での挑戦だった。ただ直後の11月に交通事故で膝を骨折。3カ月間入院し、いきなり試練が訪れた。店は従業員に任せたが売り上げは激減。「つぶれる寸前」だったが、仕入れ先に支払いを待ってもらうなど、地域のつながりに支えられて乗り切った。
復帰後は店を立て直しに奔走した。住宅街という立地から出前にも力を入れ、チラシに電話代の10円玉を挟み込んで周囲の家を一軒一軒回ってポスティング。その後も向上意識を絶やさず、95年に春日町に移転すると「女性や子どもも入りやすい店に」とファミリーレストランに倣ったランチメニューも登場させた。
すしへの情熱は、少しも変わらない。道産にこだわり、今も自分で鮮魚店を訪れて目利きする。「北海道の食材を使って、北海道らしいすしを提供する。原材料高など厳しい時代ではあるが、こだわった先に光が見える」とぶれない芯に職人としてのこだわりが垣間見えた。(中田大貴)
◇◆ プロフィル ◇◆
榊 収治(さかき・しゅうじ)1952年10月、日高町生まれ。80年からすし店「苫小牧魚徳」の代表として腕を振るう。2003年から18年間、北海道鮨商生活衛生同業組合苫小牧支部の支部長を努め、現在は最高顧問。ゴルフが得意で最高スコアは68。苫小牧市春日町在住。