中学時代に始めたソフトテニスへの情熱は尽きず、競技に携わり続けている。76歳になった今も苫小牧ソフトテニス連盟副会長として競技の普及や選手の育成など幅広く活動し「多くの子が競技を楽しみ、成長していけるように―できることを続けたい」と思いを語る。
太平洋戦争の終戦を迎えて間もない1947年、苫小牧市で生まれた。当時住んでいた王子製紙の社宅には、同世代の子どもたちが多く「毎日チャンバラや野球をして遊んでいた。馬車が通る時代で、糞(ふん)を落としながら大きい馬が歩いてたね」と少年時代を懐かしむ。
父のラケットを手に取り、苫小牧東中学校在学時にソフトテニスを始めた。校舎の中庭に小さなテニスコートがあり「遊んでいると、先生方も交ざりたい―と職員室から飛び出してきた。みんなが楽しく遊べる、ソフトテニスの面白さに気付いた」。
苫小牧東高校に進学、全国舞台を目標に本格的に競技に打ち込んだ。1年時から団体メンバーとして躍動、全国出場は果たせなかったが、3年連続で全道大会を経験した。最後の全道大会では「強豪を撃破して決勝まで進んだことに浮かれていたのか、決勝前日にトランプゲームで夜更かしをして寝不足の影響で敗れて2位。油断はするな―が教訓です」と目を細める。
学校祭では当時「仮装パレード」が流行。クラスで「値上げ反対」の文字を書いた大きな看板を掲げ、国内外のさまざまな問題に関心を持ち、その疑問を社会に投げ掛けた。「仲が良く元気なクラスだった。社会問題に目を向けながらパレードを行進した記憶が懐かしい」と写真を手に回想する。
一年の浪人を経て67年に北海道大学に進学。68~70年には盛り上がりを見せていた学生運動に興味を持ち、社会の問題に声を上げた。子ども会にも携わりレクリエーションなどで輪を広げ、保護者が抱える悩みを地域に発信した。「社会に対して不合理を正したい―とソフトテニスから離れて活動に専念した」
大学卒業後、苫小牧市役所に就職。高校時代のテニス仲間と偶然巡り会い競技を再開した。日々の練習に励み、全国の舞台にも数回出場するなど、一度競技から離れても熱は冷めなかった。
83年に苫小牧ソフトテニススクールを立ち上げ、ジュニア世代の育成に力を注いだ。「89年の国民体育大会が苫小牧を舞台に開かれる事を知り、苫小牧の選手が出場してくれたら―と思って始めたのがきっかけだった」
今年で設立40年を迎える同スクール。「勝つことが目的ではなく、競技ができる環境全てに感謝してみんなで取り組むことの大切さを、これからも伝えていきたい」と目を輝かせる。
(石川優介)
プロフィル 堀一郎(ほり・いちろう) 1947(昭和22)年7月17日、苫小牧市生まれ。大学時に生物学を学び植物観察は趣味の一環。「妻と国内で行ったことのない土地に旅行をしたい」と計画中。愛犬は「生活のアクセント。癒やしをもらっている」と愛情を注いでいる。苫小牧市有珠の沢町在住。