「調味料の定着には時間がかかる。100年かけて苫小牧から魚醤(ぎょしょう)文化を北海道に根付かせたい」と語る。苫小牧工業高等専門学校在学中に、日本で初めてのものをつくることを夢見た。その心意気が苫小牧産ホッキを使った「北寄魚醤」の開発につながった。「苫小牧から、全国の食卓に届けたい」と展望する。
1959年に札幌市で生まれた。父が日本鉱業で技術職として働いており、南区にあった金属鉱山・豊羽鉱山で育った。両親は共に秋田県出身で、同県の魚醤「しょっつる」は家で常備されている身近な調味料だった。母のあらゆる手料理に使われていたほか、インスタントラーメンにもかけて食べていたことが、現在の魚醤造りへのルーツにもなっている。通っていた小中学校の体育館では、日本鉱業が無料で「大魔神」「ゴジラ」といった当時流行の映画を上映。「田舎で何もなかったからね。楽しみにしていた」と懐かしむ。
地元の先輩たちが進学していたこともあり、「技術系の科目は面白いし、自分に合ってるかもしれない」と苫小牧高専の工業化学科に入学。研究に明け暮れる日々を過ごす中で、3、4年生のころ「40歳で創業し、技術者として日本で初めてのものをつくりたい」と考えた。卒業後は、大手総合化学メーカーの旭化成に入社し、転勤で全国を転々としながら医薬事業部で微生物の培養に携わった。
かねて、起業を考えていたことから退職し、中小企業の仕組みや経理を勉強し、2001年に苫小牧でTSOスタッフを立ち上げた。最初は、当時としては珍しかったアウトソーシング(外部委託)や人材派遣事業を行い、その利益で商品開発を進めた。
これまで培った発酵技術を用いて特産品を―と考えたときに浮かんだのがホッキ。そのころ、ホッキ製品は市内でほぼなかったが、「うま味成分のアミノ酸を多く含み、魚醤の材料として最適」と商品化を決めた。母校の協力を仰ぎ、翌年の02年から岩波俊介教授と共同研究開発に着手。07年に独自技術で魚醤特有の臭みをなくし、1000倍濃縮という特長を持った商品の販売を始めた。
一番の苦労は、取引先に商品の良さを知ってもらうこと。営業先は門前払いの連続で「千本ノックの日々が続いた」と振り返る。今では、和食料理の店日本橋(市桜木町)で同魚醤を使ったコース料理が振る舞われるなど、製品の理解者は増えつつある。地道な宣伝を続けているが「認知度はまだまだ。新しいものを形にすることは、こんなにもエネルギーがいるんだね。1年に1人でも2人でも、多く知ってもらえたら」と前を見据える。
(高野玲央奈)
◇◆ プロフィル ◇◆
太田 正輝(おおた・まさてる)1959(昭和34年)年12月、札幌市生まれ。2010年ごろに札幌のラジオ番組に出演した際に、番組内でついたあだ名は「ホッキ王子」。以来、自らの一人称を「王子」としている。苫小牧市日吉町在住。