ヒメマスの名前 最初の記載は「カバルチェッポ」

  • 支笏湖日記, 特集
  • 2023年6月9日
大正初期の「姫鱒孵化場」

  支笏湖のヒメマス釣りが解禁されました。私は焼きが好きです。

   ヒメマスが一般(和人)に知られたのは、江戸幕府がまとめた「東蝦夷物産誌」(1799年)に「カバルチェッポ」の魚名で記されたのが最初とされています。アイヌ語名については「カバルチェッポ」「カバチェッポ」「カバチェップ」の表記がありますが、いずれも同じ魚KapatChep(薄い・魚)で、聞き取りした時の発音や聞こえ方の違いとされています。

   当初、北海道では阿寒湖以外に見いだせないマス科の魚とされましたが、その後標本が米国に送られ、ベニザケと同定されました。

   支笏湖への移植は1894(明治27)年から3年にわたって行われました。初年は阿寒湖で21万粒が採卵され支笏湖へは15万粒が運ばれ、放流されたのは12万匹でした。2年目は10万匹、3年目は33万匹が放流されています。並行してサケやマスの放流も行われましたが、こちらの成果はあまりなかったようです。

   ヒメマスの回帰が確認されたのは1897(明治30)年10月。シリセツナイ川河口に設けられたふ化場沖に数千匹が見られたとなっています。以後採卵数が順調に増え、道南の大沼や青森県・十和田湖への分譲も始まりました。

   和名「姫鱒」は、増殖事業を担っていた北海道庁水産課技師・森脇幾茂が1908(明治41)年に提案して決められました。ただし、森脇の提案が12月26日で、決済されたのは翌09年1月6日だったので、命名年は文献により違いがあります。

   当時はアイヌ語に適当な文字を当てはめており、原名保存などはあまり頓着されなかったようです。現在、原名は忘れられ「チップ」と呼ばれていますが、それも最近はあまり使われなくなっています。

  (支笏湖ビジターセンター自然解説員 先田次雄)

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