木工芸作家 村上 博之さん(81) 林業愛 作品に込めて 記憶頼りに「重機」再現 細部にこだわりこつこつと

  • 時代を生きて, 特集
  • 2023年5月13日
自作に囲まれた生活を送る現在
自作に囲まれた生活を送る現在
木材運搬車で道内を駆け回った20代=1960年代
木材運搬車で道内を駆け回った20代=1960年代
妻の優子さんと初めての出会いは登別地獄谷=1967年
妻の優子さんと初めての出会いは登別地獄谷=1967年
弟の直之さんを抱く父と博之さん(左)=1949年
弟の直之さんを抱く父と博之さん(左)=1949年

  将来の夢だった画家になることを一時断念し、父の家業である林業を引き継ぐも定年退職を機に工芸の道を模索する人が白老にいる。記憶を頼りに図面を引き、独学でのみ、かんななどの工具を駆使して、若き日に汗を流した林業関連の重機を木工で再現し続けている。作品は精巧で、小さな金具も自作するほど入念な仕上がりに、まちで息づく林業への愛が伝わってくる。

   父、長之烝(ちょうのじょう)氏と母、正子さんの間に3男1女の長男として生まれた。白老の竹浦小学校、同中学校を卒業。野球や相撲などさまざまなスポーツに親しむ傍ら、小学1年生から大好きな絵を描き始め、将来は美術学校に進み、洋画家の道に進むことを目指していた。

   しかし、中学3年生のとき校長から、長男であることを理由に父が興した造林業「村上林業」を継ぐよう諭され、美術学校への進学を諦めて卒業後間もなく同社に入社した。

   会社は当時、母の実家である手塚林業の横に事業所を構え、1950年代には造林事業を拡大。大昭和製紙(当時)や王子製紙などにパルプ資材を納入。竹浦や飛生地区の山林からナラの丸太などを切り出し、まきなどにして販売したりもしていたという。

   切り出した丸太を集積場まで運ぶ「馬車追い」は人馬一体の重労働だが、父は米国製のウインチ付き6輪駆動車やクレーンを導入することで負担を軽減した。自身は18歳で大型運転免許を取得し、13年間にわたり大型トラックに丸太を積みこむ毎日だったという。ただ、重機の修理なども手掛けた経験は、現在の木工技術に生かされている。「ボルト1本の位置まで覚えている」とにっこり。

   70年代になると外国の安価な木材が国内で席巻した影響で国内林業の衰退が始まった。手塚林業が採石業に転換し、社名を手塚産業に改称したのを機に同社から応援要請を受けたこともあって同社に入社。会社は77年に新栄砕石工業(現アビーロード)となり、取締役工場長まで務めた。

   木工の作品づくりは2013年、70歳で会社を定年退職し、89歳で亡くなった父の13回忌を迎えたことを機に始めた。67年に結婚した優子さん(80)も木工作りへの良き理解者だ。重機を思い出しながら図面を引く手は、子どもの頃からの夢が実現する喜びで躍った。工具は旋盤を友人が譲ってくれたり、自作で調達もした。作品は長さ50センチほどのスケールで迫力があり、小さな部品一つ一つにもこだわり、鉄材やゴムを使用することで独特のリアリティーを醸している。

   1台の完成に2カ月はかかるといい、毎秋、町コミュニティセンターで開かれる文化祭に新作を出品するのが唯一の発表機会だ。林業愛を感じる作品を一目見ようと室蘭や苫小牧から来場する人もいるほど。「振り返れば、ずっと木に生かされてきた。これからも心ゆくままに制作を続けたい」と笑う。

  (半澤孝平)

  ◇◆ プロフィル ◇◆

  村上 博之(むらかみ・ひろゆき)1942(昭和17)年5月、白老町竹浦生まれ。交通安全指導員として1983年に北海道善行賞を受賞。76年に取得した1級造園士の資格を生かして、現在も自宅の庭に日本庭園を自作するなど庭いじりに夢中。同町竹浦在住。

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