厚真町豊丘自治会長 山路 秀丘さん(68) 頼られることがやりがいに 震災時の困難 地域で結束し乗り越える

  • 時代を生きて, 特集
  • 2023年4月22日
「横のつながりを実感できたのは、豊丘にいたから」と語る山路さん
「横のつながりを実感できたのは、豊丘にいたから」と語る山路さん
自治会120周年記念で地域住民と旅行に出掛けた山路さん(前列左端)=2012年
自治会120周年記念で地域住民と旅行に出掛けた山路さん(前列左端)=2012年
気合の入った演武を披露。学生時代は合気道などに精を出した=1978年
気合の入った演武を披露。学生時代は合気道などに精を出した=1978年
苫小牧東高校の教員時代。退職後も剣道の指導に当たった=2002年
苫小牧東高校の教員時代。退職後も剣道の指導に当たった=2002年

  厚真町に移住して37年、豊丘地区にある現在の家に住んで19年目の春を迎えた。自治会長を務める傍ら、教員経験を生かして子どもたちに勉強も教える。道の防災マスターや森林整備団体の代表など地域をフィールドに幅広い活動に励んでいる。「誰かに頼りにされることが、やりがいになっているのかな」とほほ笑む。

   高度成長期に入った1954年、人口が右肩上がりに増えていた室蘭市で生まれ、高校進学と同時に親元を離れた。大学卒業後の80年、25歳の時に教師として初めて赴任した先は、稚内市から船に揺られて3時間ほどの場所にある小さな島の学校。礼文島(宗谷管内礼文町)にある礼文高校だった。当時の教員採用の基準は厳しく、「あの頃の新任はみんな、へき地に行くのが当たり前だった。不安だったが、断ったら次の採用はない。腹をくくった」と思い返す。

   最初は心配だったが、すぐに土地に慣れた。保護者との距離感も近く、「生徒とは年齢も離れていなかったので、友達みたいな付き合いもできた」。生徒らと一緒に部活動も楽しみ、いつしか「礼文島に来て良かった」という思いに変わっていった。

   その後、86年から胆振東部の高校で教えるようになり、結婚を機に厚真町へ移住。地元の子どもたちや保護者と接する中で「学校と保護者、地域で子どもを育てる環境が自身に合っている」と改めて感じた。

   93年、厚真町内でも住民活動が盛んだった豊丘地区へ転居。町内の農家で農作業を手伝ったり、地区の清掃活動に地域ぐるみで参加したりと、住民同士のつながりの強さが心地良かった。自治会主催の懇親会や例大祭には多くの住民が参加し地域を盛り上げた。

   そうしたつながりを再確認したのが、教員を退職してから8年後、2018年9月に発生した胆振東部地震だった。震度7の揺れに見舞われた震災で町内は甚大な被害に遭い、自宅も半壊した。悲劇の中で住民はより結束。自身も避難所になっていた自治会館マナビィハウスを拠点に、生活に必要な情報を手書きした広報誌をコピーして住民に配り、炊き出しも行って苦しい時期をみんなで乗り越えた。

   かつて「よそ者」だった自分を快く受け入れてくれた豊丘地区の人々。恩返しのように今では先頭に立って、地域おこし協力隊農業支援員など移住者の受け入れに当たり、農業振興にもつなげている。「教員を辞めた頃は、やりたくないことはやらないと思っていた」と言うが、今は違う。「無理なく、自然にやりたいと思ったことをやっていく。それが誰かのためになるから」

 (石川鉄也)

  ◇◆ プロフィル ◇◆

   山路秀丘(やまじ・ひでたか) 1954(昭和29)年6月、室蘭市生まれ。函館ラ・サール高、高崎経済大を経て、80年から教員生活をスタート。追分高(安平町)や苫小牧東高の教壇にも立ち、2010年に退職。防災の大切さを伝える被災地ガイドも務める。厚真町豊丘在住。

過去30日間の紙面が閲覧可能です。