新緑に包まれた北大苫小牧研究林、紅葉が映える支笏湖、厳寒の登別漁港、イタリアの美しいベネチアの街並み―。その土地土地で心が揺さぶられた風景をスケッチブックやカメラに残し、水彩画で表現する技を追求してきた。今年で米寿を迎える今も絵筆を握る。
日本が軍国主義へ突き進んだ昭和初期、渡島管内の尋常高等小学校校長だった父文助さんと母八重さんの六男として生まれた。父親は、日常生活の様子を書き記す「綴り方」の指導に熱心だった教育者。教え子の作品は夏目漱石の門下生、鈴木三重吉主宰の児童文芸誌「赤い鳥」に多数掲載された。親戚にも教師が多い家庭環境の中で、自身も必然的に教育の道を目指すようになった。
幼い頃から絵を描くのが好きだった。「ざら紙に鉛筆で目に入ったものを描くのが楽しかった」。小学校から高校時代を過ごした渡島管内森町では、中学の時に地元の美術協会に入会。大人に交じり、水彩画に親しんだ。
実家の隣に映画館があり、映画にも夢中になった。国内人口が9000万人ほどの1950年代、全国の映画館の年間入場者数が11億人を超え、映画業界は黄金期を迎えていた。そうした時代を過ごした高校生の頃、地元映画館が企画した映画ポスターコンテストに応募。当時の人気スター片岡千恵蔵が剣を振りかざす姿を描いた作品が1等になり、「賞の景品でもらった無料券で、佐田啓二や岸惠子が出演した『君の名は』を母と一緒に見に行ったのが思い出」と懐かしむ。
高校を卒業後、美術教師を目指して、石川県の金沢美術工芸大学へ進学。卒業後は教職に就き、上川や渡島管内の中学校などで指導に当たった。転勤先や旅先で心を動かされた風景。その中に見つけた魅力をいかに表現するかを追い求めた。作品への評価は高く、歴史のある日本水彩画会の公募展や、道展にも3回連続で入選を果たした。実力が買われ、東京で公募展を開催している一線美術会の委員にも推挙された。
79年に白老町の小学校へ転勤。苫小牧市から通い、教壇に立ちながら水彩画を描き続けた。その後、苫小牧美園小へ移り、96年に定年退職を迎えた。定年後、幾つもの絵画グループで指導に携わり、2003年から7年間、苫小牧工業高等専門学校の美術科講師も引き受けた。現在は自ら立ち上げた水彩画サークル「山音水彩会」で教えており、昨年9月には自身13回目の個展を市内で開いた。
長く関わった子ども絵画クラブの教え子の中には、企業・団体主催の絵画展に入賞したり、パリのルーブル美術館で作品が展示されたりと活躍する人も。「生徒が頑張ってくれるのは指導者冥利(みょうり)に尽きる」と目を細める。美に対する自身の感性を信じ、キャンバスと向き合ってきた人生。「生涯、絵を描き続けていきたい」と意欲を失わない。
(河村俊之)
◇◆ プロフィル ◇◆
木村好(きむら・よしみ) 1935(昭和10)年6月、渡島管内戸井町(現函館市)生まれ。2000年から20年間、苫小牧市住吉コミセンで子ども絵画クラブの講師も務めた。苫小牧市春日町在住。