家にお花が飾ってあったら、きれいだろうな―。そんな軽い気持ちで始めた生け花は、いつしか人生そのものとなった。華道を歩み続けて60年以上が過ぎた今、大切にしているのは次代を担う子どもたちへの伝承だ。「生け花の技術以上に、心を落ち着けて、自分の気持ちと静かに向き合う時間を持つことの大切さを伝えられれば」。優しいまなざしでそう語った。
日本が太平洋戦争に突入した翌年に樺太(現サハリン)で生まれた。戦時下ではあったものの、穏やかな日々の下で幼少期を過ごした。しかし、日本が降伏した1945(昭和20)年8月、日ソ中立条約を破棄したソ連軍が南樺太に侵攻し占領。難を逃れるように一家で後志管内余市町へ引き揚げ、小学校の体育館のような場所で他の引き揚げ者らと集団生活を送った。
間もなく苫小牧へ移住。住居としたのは現在の木場町で、王子軽便鉄道山線近くにあった事務所のような建物。畳もなく、がらんとしていたが、それでも「自分の家ができたことが嬉しくて仕方がなかった」と懐かしむ。61年3月に苫小牧西高校を卒業。地元企業に就職し、社内の華道部に入部した。足を踏み入れた生け花の世界は想像以上に奥深く、あっという間にのめり込んだ。自宅に作品を飾り、家族と一緒に彩りのある生活を楽しんだ。
生け花の腕に磨きを掛け、40歳を過ぎた頃、華道部の講師だった故・星野稔子さんから池坊の引立教授の格付けと、「弘琳」という雅号を与えられた。後に華道部講師も引き継ぎ、60歳で勤め先を定年退職するまで後進の指導に打ち込んだ。
退職後、生涯学習に目を向けた。「市民がいろんなことを学べる機会をつくりたい」。そう考え、賛同する仲間と2003年春、市民団体エンジョイクラブを立ち上げた。旧プラザホテルニュー王子にスペースを設け、「教えたい人」と「教わりたい人」に開放。ダンスや書道など多彩な教室が開かれ、文化活動を楽しむ人々の姿を目に「わくわくした」と振り返る。
学習成果の発表機会として「エンジョイまつり」も毎年開催。11年4月には講師陣が協力し合い、東日本大震災の被災地支援イベントも行った。同ホテルの閉館で同年8月、拠点を旧商業施設・苫小牧駅前プラザエガオに移し、生涯学習を通じたまちの活性化に挑み続けた。
自身も「生け花の楽しさを若い世代に伝えたい」と、子どもたちへの指導に熱心に当たった。教え子の男子中学生と文化交流で苫小牧市の姉妹都市ニュージーランド・ネーピア市を訪問し、「日本の文化を伝えることができたのもいい思い出」と言う。
さまざまな時代を生き、悲しみや喜びを重ねながら80代になった今も意欲を失わない。子ども向け教室も続け、「作品を通じて子どもたちの成長を実感できるのが幸せ。花に触れた経験が人生の豊かさにつながれば」と力を込める。
(姉歯百合子)
◇◆ プロフィル ◇◆
田中弘美(たなか・ひろみ) 1942(昭和17)年6月、樺太生まれ。華道家元池坊苫小牧支部の引立教授。趣味はボウリング。仲間との交流や健康維持のために毎月2回、ボウリング場に通っている。苫小牧市花園町在住。