小学生から始めた野球は、53歳になった今でも現役。北海道での社会人野球でもまれながらストイックに野球と向き合ってきた左腕。「もう一度、日本選手権の舞台に立ちたい」と社会人野球ビッグ大会のマウンドを見据える。
1969年、「ON砲」と呼ばれた王貞治氏と長嶋茂雄氏が日本プロ野球界で活躍した時代、大阪で生まれた。小学1年から兄の背中を追ってグローブを握り、高学年の子どもたちに混ざって練習を重ねた。そのかいあって同学年では一枚上の実力を身に付け、中学時代まで地元の大会で表彰台に上り続けた。
高校は野球の名門・明徳義塾高(高知県)へ進学。野球部に入って早々、実力を評価されて関西遠征メンバーに選ばれた。同学年で、後に広島東洋カープドラフト1位でプロへ進んだ町田公二郎氏と練習や試合を共にした日々を懐かしむ。1年生の秋からベンチ入りを果たして活躍を重ね、3年生の春に選抜高校野球大会へ出場。初めて甲子園の土を踏んだ。「スタンドが大きく威圧感があった。マンモススタンドの名の通りだった」と思い返す。
この時のコーチで現在、同校野球部の監督を務める馬淵史郎さんの紹介を受けて88年、当時、道内5強と呼ばれた新日鉄室蘭(現日本製鉄室蘭シャークス)に入部。青函トンネルの工事が始まった時代の北の大地に足を踏み入れ、「北海道の広さに驚いた」と言う。
新日鉄の先輩だった米山浩数さんとの出会いをきかっけに、野球人生が大きく変わった。「上を目指すなら人の何倍も努力しろ」。米山さんの言葉に心を打たれ、食生活やトレーニングの方法を改善。試合で登板する時間から逆算し、睡眠時間にもこだわった。「社会人野球の厳しさを痛感した。スポーツマンとしてのノウハウも培って、本気でプロを目指すようになった」と回想する。
91年に結婚し、その翌年、都市対抗野球大会と並ぶ大舞台・日本選手権に出場。フォークを決め球に、抑えとして好投し、チームを初のベスト4進出へ導いた。堂々としたマウンドさばきにプロも注目。ドラフト候補に名前が挙がるほどになっていた。
93年には白老町の大昭和北海道の補強選手として、都市対抗に初出場。その後、苫小牧市の王子製紙苫小牧へ移籍し、新日鉄時代と合わせて7度の都市対抗、9度の日本選手権出場を果たした。2000年からクラブチーム「オール苫小牧」で11年プレーし、現在は「WEEDしらおい」で腕を振る。
今も10キロベストを着けたランニングなどで体力強化を図る毎日。社会人野球連盟の日本選手権10回出場表彰を目前に、「心の中で燃え尽きない思いがある。丈夫な身体に育ててくれた両親に感謝し、再度出場を目指したい」とマウンドに立ち続けている。
(石川優介)
◇◆ プロフィル ◇◆
別府 信介(べっぷ・しんすけ)1969(昭和44)年6月、大阪市生まれ。大阪府豊中市で育ち、中学時代まで同市で過ごした。現在、王子製紙苫小牧工場に勤務。走ることが好きで、「一度フルマラソンに出てみたい」と言う。苫小牧市三光町在住。