一章 亀裂
その言葉を舌に載せれば、取り返しがつかなくなる。そんな恐怖を覚えた。
「酔っぱらってたときに、そう言った。オヤジのお陰で専業主婦で楽に生きてきたくせに、泥かける真似してって。ああ、このひとは自分を大事に育ててくれた母親なのに、たった一回の予想外の行動くらいで切り捨ててしまうんだなって思った。思って、怖くなった。あなたは、わたしがあなたの納得できない行動をとったら、わたしのことも同じように詰るんでしょうね」
「それは、違」
「違わないよ。実際、あなたは両親を心配しなかった。いまもそう。若市くんが自分のエリアを侵食してるようで、許せないだけ。わざわざ行ってあげたのに、感謝されなかったことが腹立たしいだけ。あのね、みんながみんな、あなたの思い通りに生きてるわけじゃないんだよ」
「馬鹿にしてんのか!」
憐れむような顔を向けられ、気付けば怒鳴っていた。テーブルに拳を落とし、「謝ってんのに、だらだらとしつこいんだよ!」と続ける。美都はどこか生ぬるい視線を崩さない。美都の中に、どんな感情があるのか分からなくなる。
「謝って、だから何。わたしが許すこと前提なの? それなら謝らなくていい。わたしは、許したくない……ううん、許せそうにない」
「は? じゃあどうしろってんだよ。酔っぱらって口にした言葉の責任をどうとれってんだよ、言ってみろよ」
「酔っぱらっていようが、素面(しらふ)だろうが、混乱してようが動揺してようが、取り返しのつかないことってあるでしょう。覆水盆に返らずって言葉、音兎だって知ってる」
ピー、ピー、と場にそぐわない間抜けな音がした。美都は電子レンジのほうをちらりと一瞥(いちべつ)した後、「わたし、今日は音兎の部屋で寝る」と言った。
「食べたものはシンクの桶(おけ)につけておいて。おやすみなさい」
「待てよ。こんな状態で寝るってお前」
「お前って呼ばないで。その呼び方は嫌いだって結婚前から言ってるはずよ」
美都はため息を吐いて、リビングを出て行った。遠くで音兎の部屋のドアが開閉するのを聞く。