一章 亀裂
ぼんやりと、そういえば音兎は大きな音がしようが父親の怒鳴り声がしようが顔を見せなかったなと思った。いつもの心優しい息子なら、異常に気付いてやってきそうなものなのに。
電子レンジが催促するように、ピーピーと鳴いた。
翌日の昼休み、杏璃に電話をかけた。杏璃の勤務形態は分からないから出るかどうかわからなかったけれど、数コールで『お兄ちゃんから電話なんて、珍しくてキモい』と妹の声がした。
「何だよそれ。珍しいってのは分かるけど、キモくはないだろ」
『キモい理由でしょ、どうせ。そうだな、ゆづっちの存在にやっと気づいたとか?』
「ゆづっち? お前も、あいつのこと知ってんのか。若市(わかいち)」
『うん、美都さんから連絡貰(もら)って、見に行ったもん』
「どういうことだよ」
美都が若市の存在を知ったのは、何と十日も前のことだという。手作りの惣菜を持って父を訪ねて行ったら、若市に出迎えられた。父と若市と話をした美都は、若市のことをすぐに杏璃に連絡して知らせた。
『ひとの良さそうな青年だったって美都さんが言ったけど、やっぱ心配だからね。一応あたしも見に行って、話したの。意気投合とまではいかないけど、まあまあいい感じのひとだなと思った。家はあたしの部屋より清潔だったし、お父さんがひとりで暮らすよりよっぽど安心だし、よろしくお願いしますって頼んで、おしまい。何かあったときのために、LINEの交換はした』
「は? それはあまりにも危機感なくないか? 若市がどんな奴か分かんないんだぞ」
『強盗だの殺人だの、そういうトラブルは何十年付き合ったご近所間でも発生すんだよ。凶悪事件のあと「そんなことしそうなひとじゃなかったのにぃ」ってコメントが出るのはセオリーじゃん。初対面だろうが旧知の仲だろうが、関係ないって。事件は会議室だって密室だって起きるんだよ、あはは』
呑気に笑う声に腹が立つ。杏璃は電話をしながら煙草(たばこ)を吸っているらしい。ふー、と細長く息を吐く気配がした。