②塙守義さん(92) 「海軍特攻隊」死を覚悟、厳しい訓練で命落とす隊員も

  • 特集, 終戦75年企画「経験者からのメッセージ」
  • 2020年8月13日
厳しい訓練の日々を回想する塙さん

  「人間を人とは思っておらず『弱いやつは死んでもいい』という考えがあの頃にはあった」。海軍特攻隊の一員として過ごした1年弱を思い出しながら語った。

   敵の航空母艦への突撃に備え、練習機の操縦桿(かん)を握ったこともあったが、幸い戦地に赴くことは無いまま終戦を迎えた。除隊後は「人を大切にしたい」という思いから高校や専門学校の教員に従事した。

   茨城県日立市出身。1934(昭和8)年、鉱山関係の会社に勤める父の転勤で7歳の時に朝鮮の鎮南浦(現在の北朝鮮南浦特別市)へ転居。現地の尋常小学校へ通い、日本人のみが通う平壌の第一中学校へと進学した。

   44年、体育と教練の成績が良かったため、海軍の特別飛行予科練習生の甲種に推薦された。飛行機に爆弾を抱え、軍艦などに体当たりする「特別攻撃隊員」。入隊が決まった時には「もう命は無い、お国のために死のう」と覚悟を決めていたという。

   鹿児島県の垂水市にある航空魚雷の調整班に配属となり、航空機に積む魚雷整備を主に担当した。魚雷は直径50センチ、長さ527センチの大きさで、重さは約780キロ。本来はチェーンを巻いて持ち上げるが、敵が現れたときにすぐさま積み込めるようにと、直接担いで運ぶ訓練も行った。4人がかりで大きな魚雷を運んだが、1人当たり200キロ近い重さがのし掛かった。

   訓練では、紅白の班に分かれ、長さ4メートルほどの棒を立てて互いに倒し合う「棒倒し」が毎週のように行われた。棒の上に何人も登り、足蹴りや拳で攻撃する。負けると夕食抜きという厳しいルールがあったため、全員が必死。棒から落下して死人が出ることもあった。

   動きが遅い隊員は「大和魂注入棒」と書かれた樫の木の棒で尻を叩かれた。あまりの痛さに尻の筋肉がけいれんし、まともに歩くことができなかったという。隊員の中には尾骨骨折が原因で脳出血を引き起こし、命を落とした者もいた。「こんなことで本当に強くなるなんて、鍛え方が間違っている」という気持ちを常に抱いていた。

   45年4月ごろに宮城県の松島海軍航空隊に配属。航空機が不足していたため、航空魚雷の分解修理や性能実験実習を主に行った。10月には出撃する予定だったが、8月に終戦を迎えた。

   敗戦を聞いたときは「死ぬぞという覚悟を持っていたから、何の気持ちも浮かばなかった」といい、「隊員にそう思わせる教育を行っていた指導員を改めて恐ろしく思った」と振り返る。

   現在は教員時代に培った知識を生かし、パソコン教室の講師を現役で務める。「命あっての物種。戦争は二度とあってはならない」と静かに語った。

  (小玉凜)

   メモ 1927年12月12日、茨城県日立市で6人きょうだいの5番目として生まれた。秋田鉱山専門学校鉱山機械科を卒業後、道内で高校教諭、専門学校講師を務めた。9年前に川崎市から家族のいる苫小牧市へ移住。

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