「非核平和都市条例」を考える会代表 斉藤 けい子さん (73) 子ども10人 大家族の母 「共に育つ」教育 「自主自立」大切に 個性も尊重  原発事故きっかけに平和運動に力

  • ひと百人物語, 特集
  • 2020年8月8日
「平和憲法のおかげで、言いたいことが言える時代になった」と話す斉藤さん
「平和憲法のおかげで、言いたいことが言える時代になった」と話す斉藤さん
斉藤さん、夫の洋一さんと10人の子どもたち、家族全員で記念撮影=1991年
斉藤さん、夫の洋一さんと10人の子どもたち、家族全員で記念撮影=1991年
平和運動のきっかけとなったチェルノブイリ原発事故の写真展で、家族らと(右端が斉藤さん)=1997年
平和運動のきっかけとなったチェルノブイリ原発事故の写真展で、家族らと(右端が斉藤さん)=1997年
元米軍海兵隊員としてベトナム戦争にも従軍した故アレン・ネルソンさん(中央)との記念写真(左から2人目が斉藤さん)。その後も文通などで交流を深めた=1998年、苫小牧市内の講演会場
元米軍海兵隊員としてベトナム戦争にも従軍した故アレン・ネルソンさん(中央)との記念写真(左から2人目が斉藤さん)。その後も文通などで交流を深めた=1998年、苫小牧市内の講演会場

  「私にとっての教育は、共に育つ(共育)という意味。子どもからたくさん教わった」―。そう語る斉藤けい子さん(73)は、夫の洋一さん(81)と一緒に娘7人、息子3人を育て上げた。長年、平和運動に携わっているのは、「自主自立」という子どもの教育方針も大きい。「自分の意見を持ちなさい、とわが子に言ってきたので、自分も実践しないとね」と笑う。

   厚真町の水田農家に生まれ、6人きょうだいの5番目で三女。「男の子たちに混じり、くノ一みたいに駆け回って遊ぶのが好きだった」と振り返る。農作業や地域の冠婚葬祭など大人たちの仕事を手伝うのも当たり前。「子守りもしたし、大人の後ろ姿を見て学び、みんなが助け合って生きていた。今にはないものが、あったと思う」。この経験は自身の子育てにも、大きな自信につながった。

   高校進学を機に苫小牧暮らしを始めた。民間企業勤務を経て27歳の時、市内で写真店を営む洋一さんと結婚。1人目の長女が1975年に生まれ、91年までの間に10人の子宝に恵まれた。できるだけ助産師を迎えた自宅分娩にこだわり、夫や子どもたちに見守られての出産。「生きた『心の教育』だと思っていた。お母さん頑張れ、赤ちゃん頑張れ、ってみんなが応援団で心強かった」と頬が緩む。

   家のことは家族みんなでやった。「次は私が、赤ちゃんを抱っこする」と子どもたちも代わる代わる面倒を見た。同時に、子どもの心に芽生える疑問には真剣に答えた。

   「赤ちゃんは、何もしなくてずるい」。ある時、娘が不満を訴えた。斉藤さんは「面白いな」と思った。「赤ちゃんには、みんなを動かす気働きがあるんだよ。抱っこしたい、おむつを替えたい、と思わせるの。だから、できなかったことができるようになったでしょう」と諭したという。「3歳ぐらいから『なぜ』『どうして』と聞きたがるので、しっかり向き合うと目の輝きが変わる。三つ子の魂百まで、と言うでしょ」

   個性も尊重した。「言いたいことを言わせるので、けんかは絶えなかったけど、仲裁する子もいて、万が一の時の結束は強かった」。子どもたち全員が学生時代、新聞配達で家計を支えた。七女のひかるさん(31)は10代の頃に受けた新聞の取材に対し、両親の教育方針について「なんでも自分でやってみる習慣が身に付いた」と感謝を語った。

   市民活動のきっかけは86年のウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原発事故。「子どもの健康に気を使っても、一度の原発事故で無駄になってしまう。当時、原発が日本に30基以上あるのも知らなくて、ショックだった」。女性たちで始めた平和運動は家族の助けもあって続けられ、道内初の市非核平和都市条例制定などの成果にもつながった。

   今も核廃絶への願いはぶれない。「戦時中は言いたことも言えなかった。多くの犠牲の下、平和憲法がある。これからも、言いたいことは言っていきます」

  (河村俊之)

   斉藤 けい子(さいとう・けいこ) 1946(昭和21)年10月、厚真町生まれ。道内唯一の非核平和に特化した苫小牧市非核平和都市条例(2002年)の制定に尽力。その精神を市民レベルでも継承するため、戦後70年の2015年に設立された「非核平和都市条例」を考える会で代表を任されている。現在は夫と2人暮らし。苫小牧市双葉町在住。

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