指導者人生最後の舞台は、2020年1月に帯広市で開かれた全国高校総合体育大会。苫小牧東高は選手数17人と決して潤沢ではないチーム状況に加え、本番前に主力のけがも多発したが、5年ぶりの全国8強入りを果たしてくれた。
続く南北海道新人大会は、10人の少数精鋭ながら何とか2勝1敗1分けの3位に入った。新シーズンに向けて道筋を付けようとしたところで新型コロナウイルスのために部活動が停止。不本意な形で競技指導に終止符を打ったが、幸か不幸か、新型コロナで身動きの取れない日々が続き、かえって気持ちの整理を付けることができた気がする。ただ、人口減少の著しいアイスホッケー競技の行く末が心配だ。
苫小牧西高に勤めていた1998年3月、日系カナダ人で後に日本国籍を取得し男子日本代表として3大会連続の五輪出場を果たすなど活躍した元西武鉄道の名FWだったハービー若林(若林修)さんの誘いで、国内の小中学生と共に競技の本場カナダへ足を運んだ。
バンクーバー市内に1週間ほど滞在し、地元のジュニアチームと試合をした。日本チームはFW、DFと役割を分担して動くのに対し、カナダチームはGKを除いたプレーヤーがパックに群がるのだ。「パックを奪いたい。シュートが打ちたい。そういう感性を大事にしている」とカナダのコーチは解説してくれた。
現地の子供たちと対話する機会もあった。「将来の夢はNHLプレーヤー」と全員が即答した。しかし彼らは、夏場のオフシーズンになると野球やバスケットボールなど他競技を楽しむ。小中学生時代の私が実践していた光景は、四半世紀以上たった当時のカナダでも当たり前にあったのだ。
一つの競技だけに特化するのではなく、幼少期にさまざまなスポーツに挑戦し、それでも最後にはアイスホッケーを選択するかつての氷都苫小牧に戻ってほしい―と切に願っている。
人生を改めて振り返ると大半にアイスホッケーが関係していた。これほどとは思わなかった。氷上の格闘技とも呼ばれる激しい競技だが、私は母校苫小牧東高のお家芸とも言える細かいパス回しで華麗に1点を奪う姿に、このスポーツの魅力を感じてきた。
当然、同部を35年率いた父の正なくしては語れない。若いときはその偉大な存在を疎ましく思うこともあったが、年齢を重ねるごとに「おやじならどうしたかな」と考えている自分がいた。部活の競技指導者になるとき、父から最初に言われた「生徒と同じ時刻に集合しなさい」という教えも守り続けた。幾度となく繰り広げた親子対決は貴重な思い出の一つだ。
アイスホッケーや教員生活を通じた多くの出会いと支えに恵まれた。受けた恩に報いたいとの思いが、33年の競技指導をやり通す原動力になった。尽きない感謝を伝えたい。
(構成・北畠授、おわり)