長岡造園会長 長岡 茂さん(70) 現役職人 造園一筋50年 街の樹見守る

  • ひと百人物語, 特集
  • 2020年1月11日
緑ケ丘公園の樹木の管理をする現在の長岡さん
緑ケ丘公園の樹木の管理をする現在の長岡さん
会社の従業員と一緒に記念撮影、左が長岡さん=1975年ごろ、苫小牧市内の旧社屋前
会社の従業員と一緒に記念撮影、左が長岡さん=1975年ごろ、苫小牧市内の旧社屋前
遠く苫小牧市街地を臨む学生時代の長岡さん=1967年ごろ、苫小牧の坊主山(王子山)から
遠く苫小牧市街地を臨む学生時代の長岡さん=1967年ごろ、苫小牧の坊主山(王子山)から
苫小牧造園協会の緑化祭にて、前列左から3人目が長岡さん=1991年5月7日、苫小牧市矢代町の樽前山神社
苫小牧造園協会の緑化祭にて、前列左から3人目が長岡さん=1991年5月7日、苫小牧市矢代町の樽前山神社

  長岡造園(苫小牧市新明町)の長岡茂会長(70)は、造園一筋50年のベテラン職人。苫小牧市内の公園木や街路樹の剪定(せんてい)作業と植樹を続けてきた。「かつて苫小牧は緑の少ない場所だったが、ようやく街に樹木が増えてきてうれしい」と語る。

   長岡さんの父親は造園会社長岡組(長岡造園の前身)の社長、長岡力蔵。母親は長岡カヨ。3人きょうだいの長男として生まれた。7歳の時に、父親が仕事の都合で会社の拠点を東京から苫小牧に移し一家で移住した。当時、会社の仕事は王子製紙苫小牧工場の敷地内の緑化作業が主だった。

   市内の高校を卒業後、1968(昭和43)年に父親の会社に入社する。父親の手伝いを始めて「造園の基礎をおろそかにしてはならない」と思った。「造園を勉強しようにも当時は専門の本や雑誌があるでもなく、実際に人に会って教えを請うしかなかった」。そこで業界の知人の紹介で70年から4年間ほど本州方面の造園業者を訪ねる修業の旅に出た。大阪、京都、金沢、和歌山、東京と有名店を巡り、長いところでは1年、短いところでは1週間ほどかけて見て回った。修行中は各地の社長の家に泊まらせてもらうことが多かった。指導は厳しく「当時の職人は見て覚えろというスタイル。現場に重機が導入される前で、庭造りはすべて人力。重い庭石や木を抱えて運んだ」。そんな修業の中で出会った札幌の職人からは庭の図面の描き方を教わり「庭は心で見る風景」だと諭されて、木や石の配置で庭にストーリーを与える技法に開眼した。

   修業の合間に東京の職人からは「苫小牧は木の墓場」と言われて落ち込んだこともあった。潮風が強く土壌が痩せている上に、湿地帯が広がっているので地下水が染み出てくる苫小牧に木が育ちにくいことが東京の造園業者にもうわさとして伝わっていたのだ。

   74年に苫小牧に帰り本格的に父親の仕事を手伝うことになる。その頃、市内の街路樹のモンタナ松3000本以上が一斉に枯れるという”事件”が発生する。潮風で運ばれた塩分による塩害と冬の寒風が原因だった。「経済的な損害も大きく苫小牧の環境の厳しさを痛感した」。この頃から父親の会社では王子製紙の敷地内にナナカマド、シラカバ、ヤチダモ、アカシアなど多様な樹種を寄せ合わせて植える「密植」の方法を採るようになっていた。複数の樹種を一緒に植えることにより厳しい自然条件でも全滅せずに木が生き残る工夫だった。長岡さんも営林署から許可を得て樽前山麓の森に入り成木を掘り出してきては移植する作業を行った。85年には父親の死去に伴い社長になった。2015年には社長職を長男の直人さんに譲り、会長に就任。現在も現役の造園職人として市内の公園木の管理などを行っている。

   昭和の時代に長岡さんが植えた木は現在、大きく立派に成長して葉を茂らせている。「昔はどうやって木を育てるかが課題だった。今は木が定着したので、どうやって手入れをしていくかが課題。これからも苫小牧の木を見守っていきたい」と語った。

  (澁谷賢利)

   長岡 茂(ながおか・しげる) 1950(昭和25)年1月、東京都生まれ。27歳の時に結婚した妻の真紀さんとは10年前に死別。子どもは3人。趣味はパチンコ。物作りが好きで公園に自作のシカよけかかしを立てたりする。1級造園技能士。2級土木施工管理技士。厚真町在住。

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