苫小牧ソフトテニス連盟会長 小玉孝幸さん(70) 勝利の達成感 何物にも替え難く

  • ひと百人物語, 特集
  • 2019年11月16日
「体が動く限りは楽しみたい」と語る小玉さん
「体が動く限りは楽しみたい」と語る小玉さん
全道市役所大会で活躍し、賞状を受け取る小玉さん(左)=1970年代
全道市役所大会で活躍し、賞状を受け取る小玉さん(左)=1970年代
全道市役所大会でプレーする小玉さん(2008年7月)
全道市役所大会でプレーする小玉さん(2008年7月)
同僚と楽しんだ花見=1974年ごろ
同僚と楽しんだ花見=1974年ごろ

  今年、創立60周年を迎えた苫小牧ソフトテニス連盟の会長を務める小玉孝幸さん(70)。10代の頃に始めたソフトテニスを50年以上続けてきた。「競技での達成感や悔しさは仕事にも生かせた」とソフトテニスの存在の大きさを語った。

   苫小牧出身。高校卒業後、北海道教育大学札幌分校(現在の同大学札幌校)に入学した。1年間の浪人時に同校のソフトテニス部の練習を見学したのがソフトテニスとの出合いだった。「初めは球拾いばかりをさせられ嫌になりそうだった」と小玉さん。入学と同時に入部し、3年生までは試合の出場機会は少なかったが、4年生になると主将を任され、チームを引っ張った。

   大学卒業後は苫小牧市役所に就職。仕事に没頭する傍ら、市役所ソフトテニス部に入部した。1973(昭和48)年には全道の市役所大会で同市役所としては初めての優勝を果たした。その後、3連覇を含む5回の優勝を経験。小玉さんと澤田石綱紀さんのペアが中心となり黄金時代を築いた。「澤田石はミスが少なく、ペアとしても相手にプレッシャーをかける攻めのテニスができていた」と振り返る。

   市役所勤務時、市立総合病院事務局長や財政部長など要職を歴任。ソフトテニスは、その仕事にも役立った。「競技で身に付いた反骨精神は仕事上のプレッシャーをはね返す力になった」と言い、「ソフトテニスもプレッシャーとの勝負で、少しでも弱気になると体が動かなくなる。それに打ち勝つことができた時の達成感は何物にも替え難い」とソフトテニスの魅力を語る。

   小玉さんは72年から同連盟に所属しており、苫小牧で開催された大規模大会の開催にも関わった。84年の第39回東日本選手権大会が「一番印象に残っている」と言う。大会前日に降った雨を取り除くため熱した砂をコートにまいて蒸発させるという大胆な対応策を講じた。「コートが水蒸気でいっぱいになり、異様な光景だった。まいた砂を回収するのもかなり苦労した」と振り返る。

   89(平成元)年に苫小牧市内で開催された第44回国民体育大会(はまなす国体)では、大会運営の同連盟総務班に所属し「何でも屋」としてあらゆる業務に携わった。部署間の連絡調整に奔走し、仕事はプラカードの作成やボールの準備など多岐にわたった。「大きな大会では会場に泊まり込みで作業に当たった。やってる当時はきつかったが今となってはいい思い出」と懐かしむ。

   同連盟会長には2015年に就任。今年、創立60周年の節目を迎えた。小玉さんは「はまなす国体という大きな大会の成功が、テニスコート整備などソフトテニスの発展につながったと思う。60年間で底辺の拡大も進んできた。今後に期待したい」と感慨深げに語った。

   小玉さんは現在も現役を貫いている。糸井クラブに所属し、市内しらかば町のコートなどで汗を流しているほか、市内で開かれる大会の壮年の部に出場している。「若い頃のようにはいかないがこれからも体が動く限りは楽しみながら続けていきたい」

  (石井翔太)

   小玉 孝幸(こだま・たかゆき) 1949(昭和24)年2月、苫小牧生まれ。苫小牧東高校、北海道教育大学札幌分校を経て苫小牧市役所に勤務。市立総合病院事務局長や財政部長などを歴任。2015年から苫小牧ソフトテニス連盟の会長を務める。苫小牧市有珠の沢町在住。

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