【5】樺太敷香町で終戦 苫小牧市明野新町在住 伊藤(いとう)恵美子(えみこ)さん(84) 家族や友との別れ

  • 8.15の記憶~戦後79年~, 特集
  • 2024年8月10日
【5】樺太敷香町で終戦 苫小牧市明野新町在住 伊藤(いとう)恵美子(えみこ)さん(84) 家族や友との別れ

  樺太(現サハリン)の恵須取町で生まれました。終戦の1年前、父はニューギニア(現パプアニューギニア)のビアクという小さな島で戦死しました。当時私は4歳と幼く、父の事は覚えていません。

   玉音放送は、広場のような所で近所の人と一緒に聴きました。終戦前かその後かははっきり覚えていませんが、ソ連軍が町に押し寄せてきました。母は銃口を突き付けられて空砲を撃たれるなど、恐ろしい目に遭ったそうです。引き揚げ船に乗るために長い列に並びましたが、何組か前で定員となってしまいました。後で知りましたが、乗ろうとしていた船は敵軍の攻撃で沈められてしまいました。

   それから2年間、私の家族と叔母の家族で敷香にあった王子製紙の社宅で暮らしました。姉やいとこはソ連軍の暴行から逃れるため、兵士が来るたび屋根裏に隠れたそうです。その後、しばらくすると兵士は来なくなり、ソ連の民間人が住み始めました。同じ年頃のソ連の友達ができ、引き揚げの時は涙の別れとなりました。

   函館に引き揚げ後、父の葬儀を行いました。泣いていた母の姿を覚えています。父の遺骨はニューギニアに残されたままで、大人になってから遺骨収集も考えましたが勇気が出ませんでした。

   戦争遺族などでつくる苫小牧市遺族会に入り、平和を願う活動を長く続けてきました。国が戦闘機などを造る会社に補助金を出すなどとても恐ろしい情勢になっています。高齢化で遺族会の会員も減っていますが「戦争は駄目だ」と訴えていかなければならないと、強く感じています。

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