◇4 昭和31年 旧苫小牧川上流 囲い込まれる子どもたち 遊び場は野山、道路から「公園」へ 風景今昔 意気揚々と魚釣りや川遊び

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年5月27日
旧苫小牧川上流で小魚を探して遊ぶ子どもたち(昭和31年)
旧苫小牧川上流で小魚を探して遊ぶ子どもたち(昭和31年)
子どもたちが持つさおや網は、どれも手作りのようだ(昭和37年)
子どもたちが持つさおや網は、どれも手作りのようだ(昭和37年)
「児童公園」のある都市公園が計画された緑ケ丘公園
「児童公園」のある都市公園が計画された緑ケ丘公園
現在の「苫小牧川上流」はフェンスに囲まれていて近づけない
現在の「苫小牧川上流」はフェンスに囲まれていて近づけない

  この紙面に掲載されている古い写真は、現在70歳くらいの人たちの子ども時代の風景だ。「おおらかな時代だった」「伸び伸びと遊んだ」「ずいぶんヤンチャもした」…と、楽しかった思い出が湧き出してくるだろう。でも、よく考えると、危険で、怖くて、腹が減って、痛くて、ひやりとした記憶も、楽しい思い出と同じくらいあったはずだ。今は公園ができて安全に行儀よく遊べるようになったが、何だかその分、楽しさやたくましさが減ったようだ。それが良いのか悪いのか。昭和30年代の風景というのは、そんなことを感じさせる。

   ■危険な遊び、危険な遊び場

   春になると、なぜか続発した線路への置き石。遊び、いたずら、いや、犯罪だろう。列車の急停車や、人との接触事故もあった。昭和30年4月、日高線では5件もの「置き石」があった。犯人は、小学生が多い。学校で先生たちが「線路に入らないように」「置き石をしないように」と口を酸っぱくした。ただ、室蘭本線では経済発展を支える石炭列車が落とした石炭を燃料として細々と拾う家庭もあったから、それと置き石は何か関係があったのかもしれない。

   危険な遊び場は、あちこちにあった。例えば前浜(苫小牧市街地の海岸)。波が荒く、引き潮が強くて沖に流されやすい。しかし、当時の前浜は砂浜が広がり、格好の遊び場だったのだ。

   「苫小牧では小中学生の水死事故が毎年発生し、昨年(昭和30年)は10歳の少女が波打ち際で遊泳中、波にさらわれて亡くなった」(昭和31年8月2日付、苫小牧民報)。市教委は、前浜を遊泳禁止区域として学校を通じて警告したものの、猛暑の日には数百人もが前浜をにぎわした。

   プールは王子プールだけ。市営プール設置が要望されたが実現には遠く、水難救護機関では「せめてビニール製プールを」と市に要望した。この頃軌道に乗り始めた日本の経済発展は、日常生活を置き去りにしていた。

   ■「児童公園」を計画

   昭和30年代というこの時代、子どもたちの遊び場は、どこにでもあったようで、実はそうでもなかった。

   山も川も海も、そして道路も遊び場ではあったが危険をはらんでいた。例えば道路。自動車がどんどん増え、当たり前の遊び場から危険な遊び場へと変わっていった。「道路での遊びは禁止」「海での遊泳は禁止」と「禁止」がどんどん増えていく。その中で計画されたのが公園だ。大規模なところでは緑ケ丘公園内の児童遊園地、地域では矢代町の「やしろ公園」など児童公園が造成された。

   緑ケ丘公園は「市民の憩いの場に」と構想されていたが、10年生の桜約300本が植栽され、道路が1本あるだけ。これを都市公園化する計画が立てられ昭和32年に着手。児童遊園地、展望台、休憩所、藤棚、ベンチ、駐車場などを整備しようとする。特に児童遊園地にはブランコ、シーソー、鉄棒、砂場、築山などを備える。また、地域の公園にもブランコ、シーソー、砂場、水飲み場など、定番の施設が整備された。

   その後、児童公園はどんどん増え、子どもたちは既成の遊び場へと囲い込まれていく。

   ■現在なら「非行」

   この時代、子どもたちの中には、自由奔放な雰囲気があった。校舎の天井裏を探検してハトの巣や卵を探す、廃材でいかだを作って沼を渡る。

   時代の奔放さの反映だろうか、室蘭の小学生5人が学校を抜け出し、列車で栗山に遊びにいく途中、苫小牧駅で補導されたという例もあった。「親が心配するとは思わなかった」「うちの子に限ってそんなことはしないと思った」

   中学、高校へと年齢が進むと、行動が飛躍する。

   静内町の少年(16歳)が、港まつりが見たくて親の財布から2520円を盗んで苫小牧にやって来た。気づいた時には金を使い果たしており、帰りの汽車賃に困って窃盗に及んだ。

   道外の高校生が「高級船員」になろうと家出して北海道にやって来たが、所持金を使い果たし、苫小牧で土工夫(土木作業員)か日雇いでもしようと市内の飯場を手当り次第に訪れたが断られ、空腹を抱えて苫小牧署に泣き込んだ。これらは「太陽族」をまねたのではないかと考えられた。昭和30年に発表された石原慎太郎の小説「太陽の季節」の影響で、自分たちを囲い込む既成秩序を無視して自由奔放に行動する青年たちが現れ、「太陽族」と呼ばれていた。

   現在の子どもたちはどのように囲い込まれ、どう抗おうとしているのか。

  (一耕社・新沼友啓)

  雪が解けて暖かくなってきた頃、子どもたちは意気揚々と小川へ繰り出していたそうだ。川へ子どもたちだけで遊びに行くなんて危ない。でも彼らは、お気に入りの場所ならどこが浅くてどこが深くて危ないかを、ちゃんと知っていたという。

   川へ行く目的は水遊びを兼ねた釣り。近所の畑から転がっている竹の棒を拾って、家の裁縫道具から木綿糸を持って行くか、お小遣いでテグスを買って釣竿を作る。釣針も買う。釘や針金を曲げて作ることもある。餌のミミズはそこら辺をほじって集める。これで準備万端。このさおを使うのは小学3年生ぐらいになってからだそうだ。長いさおを扱うのは、少し体が大きくなってから。小さいうちは虫取り網ですくう。

   写真を見ると釣りをするのに、水の中まで入っている。釣りよりも水遊びが目的だということがよく分かる。水の中に入りたい!ついでに魚も釣りたい!

   釣れる魚はトンギョ(イトヨ)やゴダッペ、ドンベ(フクドジョウ)。フナが釣れた時には胸を張って家路に就いた。でも、ここで釣れた魚を持って帰ると家の人には嫌な顔をされたらしい。何だか想像がつく。

   ここで泳いだりしないのかという疑問を持つ。川遊びはあくまでも浅瀬のところでしかしない。海は遊泳禁止。泳ぐならプールへ行く。この頃は王子プールがあったのでそこで泳いだ。いや、そこしか無かった。学校プールさえまだ無い時代。

   この写真の川は王子製紙の北側の旧苫小牧川上流。今でいうと、北光町から線路沿いに木場町へ向かう道の途中だ。少しでも当時の様子を知りたくて、現地を訪ねた。でも、フェンスで囲われていて、写真の場所には行けなかった。車通りも多く、のどかな雰囲気とはかけ離れていた。今の子どもたちが「昔ここで釣りができたんだよ」と聞いたら驚くだろう。

   フェンスの向こうをのぞくと、小さな川があり水が流れている。草がぼうぼうと生い茂っていて、水がきれいなのかどうかまでは確認できなかったが、写真に写っている川に出会えて、ちょっとだけうれしかった。当時はあちこちの川でこのような光景がみられたのだそうだ。今の苫小牧で、こんな風に子どもたちが遊べる場所はどこだろう。

     (一耕社・斉藤彩加)

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