◇3 遊びの中で育つ子ども社会 子どもの笑顔は大人がつくる 昭和31年 山手王子社宅街 風景今昔 幼児から中学生まで はっけよい!! 手作りの土俵で真剣なまなざし

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年5月13日
手作りの土俵で相撲を取って遊ぶ子どもたち(昭和31年)
手作りの土俵で相撲を取って遊ぶ子どもたち(昭和31年)
山手地区の王子社宅街。家の前は子どもたちの遊び場だ(昭和30年前後)
山手地区の王子社宅街。家の前は子どもたちの遊び場だ(昭和30年前後)
かつての社宅街の一画は家庭菜園ができる「未来の森公園」になった
かつての社宅街の一画は家庭菜園ができる「未来の森公園」になった
大人社会の発展は目覚ましく、昭和31年には道内初の公立自動車学校が苫小牧に誕生。教習車両にはフォードもあった
大人社会の発展は目覚ましく、昭和31年には道内初の公立自動車学校が苫小牧に誕生。教習車両にはフォードもあった

  昭和30年代になると、戦中戦後の物不足から解放されて、生活もほぼ落ち着きを見せた。苫小牧ではベビーブームと樺太など外地からの引き揚げが重なって人口の増加が加速し、特に就学年齢の子どもの数が飛躍的に増えて、行政を慌てさせた。王子製紙は戦後間もなくから昭和30年代初めにかけて社宅をどんどん建て、社宅街は現在の若草町から山手地区、弥生町、白金町にまで広がった。その中で若草小学校、北光小学校が相次いで建てられたことは、先に触れた。街のあちこちに、子どもたちの笑顔があふれた。

   ■子どもたちの社会

   紙面に掲載された大小2点の写真の中の、子どもの数を数えてみよう。いずれも山手地区の王子社宅と思われる。

   まず、紙面左上の大きな写真では、14人を数えることができる。次に紙面右側の小さな写真。手前の社宅の前に9人、その奥に6人、そのさらに奥に4人。数が多いのにも驚くが、グループをつくって一緒に何かの遊びをしているのが見逃せない。例えば、大きな写真の中の子どもたちはみんなで相撲。中学生が幼い子を上手に遊ばせている。大相撲で栃錦と若乃花がしのぎを削っていた頃だ。

   小さな写真の中の手前のグループ。女の子はままごと、男の子はキャッチボールか。それを見ている子は順番を待っているのか。その向こうはゴム跳びらしい。いずれも一人遊びではない。相手のいる集団の遊びで、そんな中で何らかの子ども社会がつくられていったのだろう。

   ■大人の職階と子どもたち

   ところでこの頃、苫小牧は「社宅の街」として知られ、中央発の雑誌にもそう取り上げられた。1910(明治43)年に操業を開始した王子製紙苫小牧工場の建設に当たって、最初に手掛けられたのが社宅の建設であったことは、当時の写真を見れば分かる。工場の基礎掘り作業とともに、今は「中部」と呼ばれる王子町の工場正門近くに長屋風の社宅が十数棟建てられた。

   以来、「中部」を中心に社宅が並び立ち、敷地が足りなくなると「東部」(現若草町)へ、「山手」へ、そして戦後になって「西部」(弥生・白金町)へと社宅群は拡大していく。入れる社宅の造りは職階によって差があり、家の中の専用水道のあるなしなど利便性も違った。大人社会の歴然とした格差が、子どもたちにどのように影響したのかは分からない。

   ■「三百万坪」の子どもたち

   先に「子どもたちの笑顔があふれた」などと記したが、状況は明るいものばかりではなかった。

   植苗地区の西側、今の高速道路のさらに西側のゴルフ場のある辺りに「三百万坪」という名の地域があり、奥深い森林の中で炭焼きの人たちが暮らしていた。昭和30年の国勢調査の際に、ここに10人以上の未就学児童がいるのが分かった。一番近い植苗小中学校でさえ12キロもあることから学校へ行けない。それまで分からなかったのは戦後の混乱がまだ残っていたからか。

   ともかくどうするか。市、市教委、市議会が頭をひねり、現地調査もした。分教場を建てるとか、造材現場のトラックに乗せてもらって通学するなどの案が出たが、結局、植苗小中学校の校長住宅を改装して「寮」を設けることにした。狭いが、風呂もある。増築も計画した。5月に入寮式をし、取りあえず低学年の8人が入った。中学1年生の男の子は、夏の間は自転車で12キロの道を通学する傍ら、集落と学校との連絡を担い、また、集落に新聞など「文化」を届ける重要な役目を果たすことになった。

   入寮した子どもたちの世話は、新卒の青年教師が「寮長」を買って出て、その母親がこまごまとした面倒を見ることになった。これで勉強ができる。子どもたちにようやく笑顔が浮かび、親たちは涙を浮かべた。

   7月には運動会が開かれて、三百万坪の子どもたちも走った。初めて体験した運動会だった。自然の中で鍛えられた子どもたちの足の速さにみんなが驚き、拍手を送った。

   「わが子の走る姿を初めてみた父兄たちは感激の涙を浮かべ(略)他の子と親しく話し合っているわが子の姿に、感激の色を浮かべていた」と昭和31年7月3日付苫小牧民報は報じている。三百万坪の子どもたちは、新しい世界と友だちを見つけた。子どもたちの笑顔を、行政や大人たちがつくった。

     (一耕社・新沼友啓)

  子どもたちが相撲をして遊んでいる(紙面上の写真)。そのまなざしは真剣そのもの。下は幼稚園児ぐらいから上は中学生まで。真剣勝負だ。土俵を整備したためだろうか、スコップが転がっている。裸足で遊ぶために、まず整地からしていたのだろう。みんなはだし。これは楽しいこと間違いなしだ。泥だらけで帰宅する子どもたちのことを考えると青冷めるな、と思うのは大人になってしまったからなのだろう。

   この頃の履物は短靴と呼ばれるゴム製の靴。運動会となれば足袋を履く。理由は短靴だと脱げるから。何とも単純。運動靴もあったが、全員がそろって購入することはできない高級品。その点、足袋は安価だ。

   この場合の足袋というのは、一般の足袋とは違って「くるぶし靴下」のようなもの。足首はゴム。足の裏の部分が少し厚くなっていた。足袋でグラウンドを走り回るのだから運動会前の石拾いは必須だったそうだ。運動会前の石拾いは今も続いている「文化」だが、理由が違う。

   男の子の帽子の校章は、恐らくは西小学校のもの。社宅は木造。とすれば多分ここは北光町辺りの王子社宅街ではないだろうか。

   家の周りには土俵を造れるほどの場所があり、勝手に地面をほじくっても誰かに叱られることなどない。今と比較すると、どれをとっても驚きだ。子どもたちが相撲をとったあと、この土俵はどうなるのだろうか。

   当時土俵を造っていたであろう北光町辺りを訪ねると、家が肩寄せ合って並ぶ住宅街があった。すべてコンクリートできれいに舗装してある。土俵を造るなんてことは考えられもしないし、何しろ、今の子どもたちの遊びに相撲などというものは存在しない。

   家庭菜園を楽しめる「未来の森公園」も社宅街の跡。その向こうに王子製紙の赤白煙突が大きく見えた。写真の子どもたちが相撲を取っていた時代、王子製紙の煙突はどんなふうに見えていたのだろう。

  (一耕社・斉藤彩加)

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