昭和41年といえば、わが国はなお高度経済成長のただ中にある。所得の増大で、消費生活が向上した。例えば苫小牧でも高級果物が売れ、バナナなどは価格の下落などもあって1年間で3倍以上の消費量になった。半面野菜は消費量が減少し、食糧難の時代に食膳を助けた大根などは、半分に減った(以上グラフ参照)。開発が進む一方で、湿地を餌場とするアオサギのコロニーの調査やアイヌの丸木舟の発掘など自然、文化に関する関心も高まった。文化といえば、幾つかの新しい刺激が苫小牧に上陸した。一つはベンチャーズ苫小牧公演。いま一つ挙げれば膝上20センチのミニスカートで、対して防犯協会は「膝上ゼロセンチ運動」を始めた。
■ベンチャーズ苫小牧公演に2000人
ザ・ベンチャーズ苫小牧公演は8月26日、王子スポーツセンターで催された。苫小牧民報・千歳民報主催。2000人を前に約2時間「十番街の殺人」「蜜の味」「ダイヤモンドヘッド」のほか「君といつまでも」など日本のヒット曲も聴かせ、大盛況となった。
エレキギターは、昭和30年代後半から若者の間にはやり出した。1960年を前後してザ・ベンチャーズ(米国)、ザ・ビートルズ(英国)が躍り出て、エレキブームに火が付いた。「静」のベンチャーズ、「動」のビートルズ。ビートルズの公演は熱狂でエレキの音が聞こえなかった。
昭和37年のベンチャーズ初来日でブームは急速に地方にまで及び、苫小牧でも「ザ・クランチャーズ」(王子製紙)など幾つかのアマチュアエレキバンドが活動を始めた。同40年には中学生、高校生にまでエレキバンドが浸透し、そこへ昭和41年のベンチャーズ苫小牧公演であった。
エレキブームの中で「非行」が問題になった。折しも非行は第2のピークにあった。昭和40年末には苫小牧市教委、市補導センターがエレキ演奏会への中学、高校生の入場自粛(夜間は入場禁止)を通達した。「エレキそのものは否定しないが、雰囲気が不健康で非行に結び付く恐れがある」
このためザ・ベンチャーズ苫小牧公演の趣旨にも「これを機にエレキ音楽を聴くマナーを身に付けてもらいエレキに対する正しい理解を…」と、現在なら首を傾げたくなる文言が並んだ。
ともあれエレキブームは、行儀よく聴く大衆音楽から参加し跳躍する大衆音楽への大転換であり、ベンチャーズ苫小牧公演を巡るあれこれは、その転換点の興味深い出来事であった。
■アイヌ丸木舟とアオサギ
原野開発の一方で、文化を探究し自然を守ろうとする活動が活発化した。7月、勇払川旧古川で見つかったアイヌ丸木舟の発掘作業が行われた。市教委、道教委の職員、苫小牧郷土文化研究会の会員などが文字通り泥まみれになって5隻の丸木舟を掘り上げた。丸木舟は、勇払から石狩へと続く「勇払越え」を実証する貴重なものであった。
9月5日、苫小牧郷土文化研究会は苫小牧市と土地所有者の苫小牧港開発株式会社に、明野地区の埋め立て地に隣接するアオサギコロニー(集団営巣地)の保護対策を申し入れた。
コロニーは、明野地区の樹林の中にあった。港の土砂による埋め立て地に隣接し、このコロニーを守ることはとりもなおさず、開発と自然保護との両立を示すものであった。
同研究会の調査によれば、同地区には勇振川近くの湿地のハンノキ林に3カ所に分かれてコロニーがあった。埋め立てが進められる中で1カ所は放棄され、残る2カ所合わせて約1万平方メートルに親鳥約90羽、ヒナ150羽が営巣していると推測された。アオサギは周辺の湿地や河川で小魚を補食しており、コロニーを含めて約4万平方メートルの自然を残せばコロニーが存続できるのではないかと考えられた。コロニーは後に、土地の所有者である苫小牧港開発株式会社の協力で「桜蘭の森」として保護されることになる。
■1万5000人が「歩け、歩け」
「スポーツを通じて健康でたくましい心と体をつくり、豊かで明るい都市を築こう」というスポーツ都市宣言が11月12日、行われた。市民すべてがスポーツを楽しみ、スポーツができる場をつくり、青少年のために地域にも職場にもスポーツを楽しむ機会をつくろうと呼び掛ける。スポーツ都市宣言は、全国で初めて。
式典、大泉源郎市長による宣言の後、「市民総歩け歩け運動」で4キロほどを歩き、これらへの参加者は小中学生、高校生、事業所従業員、幼児からお年寄りまで1万5000人に達した。
王子、岩倉の屋内スケートリンクは無料開放。産業会館の屋上からアドバルーンが上げられて、華やかな一日となった。
ところでこの、スポーツ都市宣言の提唱者が苫小牧商工会議所だったというのが興味深い。「最近、青少年非行が社会問題化している。スポーツを通じて健全育成ができないか」。しかし、それが果たして会議所として取り組む事柄なのかどうかの議論があった。「スケートのまちの凋落(ちょうらく)に歯止めをかけ、各種スポーツの指導者を育て、スポーツ活動を非行防止に結び付ける。それをどこかが中心となってやらねば。事業計画の柱の一つである『明るく住みよい街づくり』にも合致する」
やや遠回りの理由付けではあったが、関係団体と協議して連絡会議をつくり市に働き掛けることを決めたのは、この議案の提案者が岩倉春次会頭当人だったからというだけではない。
(参考=苫小牧民報ほか)
一耕社代表・新沼友啓
■苫小牧駅の貨物取扱量全国一
昭和41年、苫小牧駅の貨物取扱量が全国一となり、苫小牧市や商工会議所は「誇ってよいこと」「企業誘致にも弾みがつくのでは」と祝賀ムードで、「記念祝賀会」(12月6日)も計画したが、これを前にした座談会で、当の苫小牧駅長がなかなか厳しい見方を述べた。以下はその一部。
「鉄道貨物の取扱量が全国一になっても、原料を移入し、これを製品にして発送するという充実した内容ではない。いわば他人の貨物が素通りしている現状だ。今後、名実共にトップになり、企業誘致面でもお役に立てればと思う。苫小牧港の発展のためお手伝いをしたい。現状ではあまり国鉄はお役に立っていない。現在集中している雑貨は散発的なもので、大量貨物の発着は少ない。貨車を利用する貨物量が少なすぎ、主体は石炭。従来は王子製紙など地元企業の利用が多くあったが、港ができたことによって貨物の種類が大きく変化している(以上概略)」
(苫小牧民報、昭和41年12月3日付)
【昭和41年】
苫小牧の世帯(戸数)・人口 23,833世帯 92,064人
消費量増加の青果物=メロン、バナナ、ネーブル、洋菜
消費量減少の青果物=ミカン、ナシ、カキ、大根ほか洋菜を除く野菜全般
4月 1日 苫小牧漁港使用開始
苫小牧港開港(外国貿易港の指定を受けることで関係法令上の「開港」とされる)。道内初、全国で9港
6月26日 苫小牧から全国843局にダイヤル即時通話となる
7月2~11日 勇払川から道内最古の丸木舟5隻発掘(道文化財に指定)
8月 1日 苫小牧労働基準監督署開設。12月に旭町に新庁舎完成し移転
8月31日 苫小牧市教職員組合(苫教組)結成
11月12日 苫小牧市スポーツ都市宣言式典と記念行事実施
12月 6日 苫小牧駅、全国一の貨物取り扱い祝賀会開く