苫小牧のまちづくりの中で、この年ほど多くの施設が生まれ、あるいは姿を消したことはなかったに違いない。市民会館、西町下水処理場、婦人ホーム、学校給食センター、美園小学校などが完成し、糸井団地の造成や青少年センターの建設が始まり、市立総合病院は第二期工事を終えて竣工(しゅんこう)した。港の建設に予算が回されてそれまで滞っていた市民生活関連の施設整備を一気にこなしたのだ。一方で、王子製紙東部社宅の取り壊しが始まり、苫小牧の風景のシンボル的存在だった王子製紙の給水塔も、十勝沖地震での被災をきっかけに解体された。まちの風景は大きく変わっていく。
■企業誘致、予算で議論沸騰
この年、苫小牧は春先から目まぐるしい動きの中にあった。臨海工業地帯で日軽金が着工し、日之出化学、出光興産などが操業を開始した。力を入れ続けていた企業誘致がようやく実を結び始めたのだ。その中で厄介なことが起こった。昭和26年に制定していた企業誘致条例による日軽金への助成金が総額4億6000万円にもなった。「今回は仕方ないにしても、今後も多額の助成金を企業に支出し続けるのか」と、条例廃止の声が上がった。他方で「誘致しっ放しで後の面倒を見ない」との不満もあった。賛否の中で「条例による助成は市としての熱意の現れであり、廃止は時期尚早」というあたりで決着した。
3月、市議会に提出された昭和43年度予算案が一般会計、特別会計、企業会計を合わせて総額61億5000万円にも上った。前年度の当初予算を20億円も超える超大型予算だった。
大泉源郎市長は「今年は街づくりを最重点として市政執行に当たる」と気炎を上げたが、税収が豊かなわけではない。財源をほとんど「借金」に頼ったから「博打予算」とさえいわれた。市役所内部でも論議が交わされ、議会では賛否ばかりでなく財政の在り方を問う論議が行われ、その結果22項目という異例の多さの意見書を付けて市原案はようやく可決された。行政も議会も、ぬるま湯に漬かることは許されなかった。
■人口5万人、理想の団地造り
新しい時代の市民生活への移り変わりを象徴するものとして、糸井団地の造成があった。増加する人口に対応する住宅地を糸井地区に7年かけて造る。現在の日新町、しらかば町である。公営住宅のほか企業の社宅、一般分譲地も用意する。当初計画での地区内人口は1万2000人。成熟時には5万人と計画された。団地というより一つの街である。
公営住宅には地域集中暖房を導入し「室内はいつもポカポカ。外には煙突はなく、スモッグもない理想的な寒地向け住宅団地」を目指す。地域集中暖房は札幌市では実施されていたが、その規模の大きさで糸井団地は「わが国初」とされた。
もう一つ、新しい試みに、戸建て住宅地でのラドバーン方式の採用があった。人と車を分離する交通体系で、一見迷路。交通事故が多発していた当時、欧米の区画整理の方法を取り入れた画期的なものとされた。しらかば町の団地造りがそれで、現在の評価はどうなのであろう。
新しい団地造成が始まる一方で、王子製紙東部社宅の取り壊しが始まった。同社宅群の木造家屋は大正から昭和初期に建てられたもので、この年5月の十勝沖地震で危険な状態になった。王子製紙はこれを機に解体し、社宅を中部アパート群に集約し、社宅跡地の分譲を考えた。駅前の再開発計画が浮上していた。
10月に北海道・東北一の施設を誇る文化の殿堂、市民会館が落成し、落成記念式典(18日)後、記念の文化行事が目白押しに開催され、市民文化祭の主会場にもなった。
街と人々の生活風景は大きく変容していった。
■幻の動物園構想
この時期、高丘地区の丘陵地帯を対象地域として大規模公園計画が立てられた。緑ケ丘公園や清水小学校周辺から霊園を越えて北西部までの約370ヘクタール、全道一の規模である。現在の高丘森林公園がそれで、当初の計画図では、緑ケ丘公園の丘陵下にはスケートリンク(緑リンク=現在は市立病院がある)が整備され、清水小学校北側は運動公園。最北西部にゴルフ場が描かれていた。現在の第二霊園辺りであろう。
この公園造りが内部検討されている頃、苫小牧市公民館の職員らを中心に「苫小牧市立動物園をつくろう」という計画が進められていた。差し当たり、小動物。鳥類、ウサギ、クジャクバト、サルなど。これと隣り合わせて豆汽車を走らせ、メリーゴーランド、空中観覧車、回転ボートなどの遊具をそろえて家族で楽しめるようにする。帯広などの市立動物園を視察し、1500万円から2000万円掛ければ立派なものができると踏んだのだった。
「大苫小牧」の夢が限りなく広がる時代。この年4月、北海道開発庁は苫小牧東部大規模工業基地開発計画を立案した。人々の夢はこれによってどう変わっていくのか。
一耕社代表・新沼友啓
■一人でも多くに良い水を
昭和43年、西町終末処理場が完成し、市街地西部を対象地域とした6万人のし尿と下水処理が可能になった。市街地の拡大に伴って上水道の拡張工事も進められ、衛生環境は一段と進むが上下水道事業の台所は火の車。累積赤字が膨らみ、水道使用料金値上げが考えられた。以下は、それに対する苫小牧市連合町内会長・山本原二さんの話。
「市の上下水道事業がたくさんの赤字を抱えて悪化しているのは案外一部の人たちだけしか知らないのではないか。私は料金を値上げしたいという市の考えは理解できる。説明をよく聞くとそれほどの値上げでもない。市は、値上げすべきときは値上げして、一人でも多くの市民によい水を供給できるようにすべきだし、経営の健全化のためには企業の合理化を進めて無駄な費用は減らしてほしい。建設費にしても国に向かってどしどし要求すべきだ」
(以上概要、昭和43年3月2日付苫小牧民報)
【昭和43年】
《社会・生活・娯楽》
「ボンカレー」発売。世界初の一般向け市販レトルトパウチ食品/郵便番号制度実施/十勝沖地震(M7.9)発生。死者52人/カネミ油症事件/東京都府中市で三億円強奪事件が発生/長編劇画『ゴルゴ13』の連載開始
2月 5日 日之出化学操業開始
4月 みその保育園開園
4月 北海道開発庁が苫小牧東部大規模工業基地開発計画案を樹立
4月 6日 美園小学校開校
5月 糸井団地造成始まる
5月 1日 学校給食センター開設
5月16日 十勝沖地震
5月 王子東部木造社宅解体始まる。創業期以来のれんが造りの給水塔も解体
6月 1日 西町下水処理場操業開始
8月 出光興産苫小牧油槽所操業開始
10月1日 市営バス、市内路線でワンマンカー実施(山手地区を除く)
10月18日 市民会館落成記念式典
12月24日 苫小牧市婦人ホーム開館(道内では最初)