「やると決めたら、とことん突き進む」。それをモットーに美術の道を歩んできた。学校の教壇に立つ傍ら、新道展会員の画家として活動。81歳の半寿を迎えた今も創作意欲は衰えず、新たな美の世界に挑戦し続けている。
1941年の日米開戦の1カ月前、虻田町(現洞爺湖町)で生まれた。子どもの頃から絵を描くのが大好き。鞍馬天狗のキャラクターを描いた作品が少年雑誌で入選したことも。「勉強は苦手だったけれど、絵だけは得意」。そんな少年時代を過ごした。
戦後、中学生のとき、親戚から油絵道具をプレゼントされたことが、絵画にのめり込むきっかけになった。58年、進学した伊達高校では美術部に入部。顧問で全道展創立会員の斉藤広胖氏(故人)から油絵のイロハを学んだ。放課後は部室にこもり、「絵筆を手にキャンバスと向き合う毎日」。2年生のとき、室蘭地区美術協会展に出した作品が教育長賞を受賞し、いっそう制作意欲を燃やした。
高度成長期を迎え、人々の生活も豊かになっていった60年、東京の武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。初めての都会暮らし、先端の流行に刺激を受けながら2年間、絵の技を磨いた。卒業後の62年春、故郷に戻り、地元新聞社に就職。芸術文化も扱う学芸担当記者となった。取材活動に励む中、教員の成り手不足が深刻化していることを知り、教職を目指して64年、新聞社を退職。同年から門別町(現日高町)の中学校で教員人生の一歩を踏み出した。
勤務先の小さな学校は町の山奥にあり、周囲は森林ばかり。自然豊かな環境の中で美術のみならず、全教科を教え、熱心に指導に当たった。しかし、暮らしは不便。買い物も遠く離れた街まで出掛けなければならず、「自分の画材を買いそろえたり、絵を出品したりするにも一苦労。だから絵を描くのをやめてしまった」と言う。
転機は71年、30歳のときだった。自宅に高校の後輩が訪ねて来た。「美術学校まで出ているのに、絵を描かないのはもったいない」と説得され、制作活動を再開した。白老町の小学校に転勤した74年から、苫小牧美術協会員で全道展会員の画家池本良三さん(故人)らと親交を深めながら、新道展などに出品。全道教職員展で最優秀の「特選」を2年連続で受賞するなど実績を重ね、実力と自信を付けていった。
79年に苫小牧市の小学校へ異動し、苫小牧美術協会員として活動。苫小牧民報連載小説の挿絵を担当し、東京の公募展などへの出品も続けた。教員を退いた後も精力的に芸術活動に挑み、今は、菓子箱や金具など身近な物を組み合わせて作る立体アート「ブリコラージュ」の制作に力を入れている。「いずれ個展を開きたい」と意気盛んだ。
(陣内旭)
吉田隆一(よしだ・りゅういち) 1941(昭和16)年11月3日、虻田町(現洞爺湖町)生まれ。絵画制作のほか、大昔の蝦夷地(北海道)と日本の関わりなどをテーマにした小説も執筆している。文芸誌・いぶり文芸で「津軽海峡をわたったヤマト船団」を連載中。苫小牧市澄川町在住。