白老・喫茶休養林経営 相吉 京子さん(82) 文化人憩いの場 夫婦二人三脚で40年 「店に集まる人たちに 支えられた」

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年10月22日
俳句に親しみ、現在も月に20~30句を詠む相吉さん
俳句に親しみ、現在も月に20~30句を詠む相吉さん
喫茶休養林の開店当時、夫の正亮さんと=1979年
喫茶休養林の開店当時、夫の正亮さんと=1979年
東京で母登和(とわ)さんと写真に収まる17歳の相吉さん=1957年
東京で母登和(とわ)さんと写真に収まる17歳の相吉さん=1957年
板紙連合会(現日本製紙連合会)の職員時代=1962年
板紙連合会(現日本製紙連合会)の職員時代=1962年

  白老町大町の商店街にある古い喫茶店。夫と二人三脚で営んで40年以上になる。丸太を削って手作りした椅子や一枚板のテーブルが並び、昭和の雰囲気を漂わせる店は文化芸術を愛する人たちの集いの場。長年にわたり文学サロンや歌声喫茶を定期的に催してきた。「この店に集まる人たちに支えられ、生かされてきた」。そう振り返る。

   1940年、東京で4人きょうだいの末っ子として生まれた。翌年、日本は太平洋戦争に突入。敗戦が色濃くなった44年11月から終戦の翌年8月まで東京で空襲が続き、母の助けで命拾いしたことも。辺りは焼け野原と化し、大勢が犠牲になった戦争が終わった後、住民は食糧難に苦しんだ。「いつも空腹だった私に近所のおばちゃんが大きなおにぎりをくれた」。苦難の日々を送る中、幼心にも人の温かみが身に染みた。

   自宅近くにあった商店の手伝いをしながら地元の小中学校や高校に通い、卒業後、都内で業界団体職員として働いた。そうした中で東京の企業に勤めていた当時20代の正亮さん(82)と恋に落ち、東京五輪が開催された64年に結婚。71年に正亮さんの故郷・白老へ移り住んだ。大都市から見知らぬ小さな町へ。環境は様変わりし、慣れない土地に不安も大きかったが、「向かいに暮らしていた営林署職員の一家がいろいろと面倒を見てくれ、寂しかった気持ちが癒やされた」。困ったとき、そっと支えてくれる人のぬくもり。おにぎりをくれたあの近所の女性を思い返した。

   人との縁を広げたい。そんな思いもあって79年、「休養林」と名付けた喫茶店を開業した。当初はまだ町のことが分からず「来店した観光客の質問にもしどろもどろ」。悔しく、まずは白老に根付くアイヌ文化を知ろうと、アイヌの口承文芸などを懸命に学んだ。その活動はいつしか文化、文芸に親しむ人たちを呼び寄せた。開店した年、文芸団体「白老ペンクラブ」初代会長の故林義実さんが店を訪れ、「月1回の例会をここで行いたい」と申し出た。それから文学談義のサロンが始まり、休養林は白老文化の拠点の一つになっていった。

   自身も刺激を受け、随筆や現代俳句をたしなむように。特に俳句に力が入り、「作ればみんなが褒めてくれた。喜ばせたくてどんどん詠んだ」と笑う。今も月に20~30句をしたためる。

   休養林の存在はプロの文化関係者にも知られるようになった。映画監督の山田洋次氏、作家の故立松和平氏、東京の人形劇団プーク主宰の故川尻泰司氏―。来店した著名人らとの親交を温めた。店は文化人のみならず、地域住民の憩いの空間として親しまれ、若者が昔話を聞きたいと訪ねて来ることも。「若い人から元気をもらえるのがうれしい。夫と一緒にまだまだ頑張らなくちゃ」。きょうも笑顔で客にコーヒーを運ぶ。

  (半澤孝平)

   相吉 京子(あいよし・きょうこ) 1940(昭和15)年7月、東京都豊島区で生まれた。2004年に氷原帯俳句会新鋭賞、16年度の町文化団体連絡協議会功績賞を受賞。俳句の雅号は「香湖(きょうこ)」。白老町大町在住。

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