「多才」の言葉がぴったりな人がいる。着付けの山野流で専門的知識や技術が認められた者だけに与えられる、奥伝師範講師の資格を持つ。老後の楽しみをつくるために習い始め、日本伝統文化の継承を担う存在にまでなった。
それだけではない。准看護師、美容師、エステティシャン、花嫁着付師、茶道の表千家講師、ドイツ語技能検定3級―。分野にとらわれない多くの職能を身に付けている。
太平洋戦争のさなかに生まれた。父は戦地で負ったけがで5歳のときに他界し、母は出稼ぎのため上京。5歳上の兄は他の家の養子になった。育ての親は母方の祖母。戦中、戦後の激動期でも「笑顔を絶やさない楽天的な性格」だったという。
藤島さんも同じだった。友人家族をうらやましく思うことは多々あったが、決して下を向かなかった。苫小牧市立病院付属准看護婦養成所(当時)入学の必要書類を見た中学校の教員に「親はいなかったのか」と驚かれるほどだった。
市立病院や地域の個人病院に30年近く勤務。そこで出合ったのがドイツ語だった。養成所時代の必修言語で、日々の業務に同語があふれていた。「初めてドイツ語を聞いたとき、響きがとてもきれいに感じた」
1981年にドイツ・ミュンヘンで開かれた学会に参加。あいさつもままならなかったが、退職後の1996年、53歳から本格的に語学習得に励み1カ月の短期留学もした。06年に独検3級を取得。13年には道外のドイツ語暗唱大会に初出場し、初優勝を手にするまでになった。
40代で着付師、エステティシャン、50代では花嫁着付師、美容師の資格も取った。「自分の好きなことをしてみたらと、背中を押してくれた夫の言葉も大きかった」と言う。
順風満帆な人生が大きく揺らいだのは14年。左耳下に悪性リンパ腫が見つかり、腫瘍は一時握り拳大にまでなった。准看護師時代の経験から死を覚悟した一方、「なったときはなったとき」と、ここでも前向きさは失わなかった。幸い治療や家族、仕事などを通じて知り合った多くの仲間の支えもあって、元気を取り戻すことができた。
「1分1秒をより大切に過ごすようになった」という現在は、着付けサークル友美会で熟練者に高度な指導を行う傍ら、昨年からは野口観光ホテルプロフェッショナル学院(苫小牧市)の着付け講師を担い、10代の若い世代に着物の魅力を伝えている。「見るものすべてが初めての子たちばかり。教えていて面白い」と笑顔を見せる。
ドイツ語習熟にもより力を入れる構え。「Auchwennich100jahraltwerdewerdeichweiterdeutschlernen(100歳になっても私はドイツ語を学んでいることでしょう)」。意欲は尽きない。(北畠授)
藤島 慧子(ふじしま けいこ) 1943(昭和18)年4月、苫小牧市生まれ。白老中学校卒業後、当時の苫小牧市立病院付属准看護婦養成所に入所。同院や地域の個人病院に長く勤務した。40代から着付けなどの各種資格を取得し、ドイツ語も堪能。大病を克服し、元気いっぱいの日々を送る。市見山町在住。