1947年2月、後志管内留寿都村で大工の棟梁だった父の4人きょうだいの次男として誕生。2歳で虻田町(現洞爺湖町)に移り、18歳まで過ごした。
子どもの頃は、遊ぶとなれば大人数が基本。砂浜で野球をしたのを懐かしく思い出すという。中学時代は父の仕事を手伝い、洞爺地区の旅館やホテルの建築を手伝った。「頭の中のイメージを具現化できる建築の仕事に今も敬意を表している。チームで動くことの大切さも学んだ」と話す。
伊達高校を卒業後は北海道教育大学函館分校(当時)に入学し、教員となる勉強と美術を学んだ。22歳で国画会展に出品した彫刻が入選したのもいい思い出だ。生活費は奨学金頼みで不足分はアルバイトで稼いだ。「貧しかったが楽しい青春時代だった」
69年春、後志管内神恵内村で教師生活が始まった。古里の虻田町や苫小牧の樽前小、清水小、豊川小でも「出会った児童たちは教師人生に大きな影響を与えてくれた」。94年に様似鵜苫小の教頭となり、四つの小学校を経て99年にえりも目黒小中の校長に就任。苫小牧錦岡小、豊川小でも校長を務め、2007年に退職した。
思い出すのは、市内の小学校で起きた学年崩壊。ボスだった男児は事情があって両親から離れ、祖父母に預けられて育った。わがまま勝手な行動が他の児童に影響を与え、授業の妨げになっていた。「あえて正面から男児と向き合い、対立もあったが対話を重ねることで校長室に遊びに来るほど仲良くなった」といい、「ボスが変われば周囲も変わる。心労が大きかった教員へのフォローも欠かさなかった」と振り返る。どんな子も学級も必ず変えられる―という信念とチーム力の重要さを知っていたからこそ「乗り越えられた」と語る。「見て見ぬふりは許されない」
退職後も放課後の居場所づくりに取り組んだ。10年から市の福祉部生活支援室で子供健全育成指導員となり、経済的事情による教育格差を目の当たりにした。貧困の連鎖を断ち切るには教育機会を増やし、学力や能力の向上を助けることだ―と確信する。引きこもっていた中学3年の生徒と1対1の受験勉強を重ね、高校入学を勝ち取ったときは手を取って喜び合った。進学を諦めている子どもたちの支援に積極的に乗り出すことを固く誓った。
14年、一人親家庭の保護者会である「風花の会」から学習塾をつくれないかとの相談を受け、立ち上げに加わった。TOMA塾は市内3カ所で計約100人を指導。現在もコーディネーターを務める。「大人は児童の未来と幸せに全責任を負っている」と言い切り、後継者探しにも力を注ぐ。
(半澤孝平)
藤沢 紀世安(ふじさわ・きよやす) 1947(昭和22)年2月、後志管内留寿都村生まれ。後志、胆振、日高管内の主に小学校で38年間教師を務めた。幼少期からものづくりへの関心は高く、現在も彫刻家としての顔を持つ。金属彫刻家として著名な藤沢レオさんは長男。苫小牧市宮前町在住。