BPW苫小牧副会長 北畠 瞳さん(89) 互いの性を認め合って 女性の地位向上へ恐れず挑戦 声を上げ続けないと何も変わらない

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年2月5日
女性の地位向上に力を注いできた北畠さん
女性の地位向上に力を注いできた北畠さん
市役所職員時代に仲間と船に乗って遊んだ(右端が北畠さん)=1951年7月
市役所職員時代に仲間と船に乗って遊んだ(右端が北畠さん)=1951年7月
人工言語のエスペラント語習得にも励み、さっぽろ雪まつりでは雪像を作成しPR(左から3人目が北畠さん)=1987年2月
人工言語のエスペラント語習得にも励み、さっぽろ雪まつりでは雪像を作成しPR(左から3人目が北畠さん)=1987年2月
BPW連合会ヤングスピーチコンテストの報告に市長を表敬訪問(右端が北畠さん)=2015年5月
BPW連合会ヤングスピーチコンテストの報告に市長を表敬訪問(右端が北畠さん)=2015年5月

  低出生体重児で生まれた。「この子は長く生きない」―。助産師から告げられた両親は、出生届をしばらく出さなかったと聞いた。あれから90年もの歳月がたとうとしている。「あっという間な人生だった」と北畠瞳さん(89)はほほ笑んだ。

   7人きょうだいの3番目で長女。太平洋戦争は室蘭市在住中に経験した。終戦近い1945年3月に高等女学校を受験。汽車などの公共交通機関は止まり、空襲や艦砲射撃におびえながら、自宅から受験会場まで5キロ以上の道のりを歩いた。

   学業よりも4人いる弟、妹たちを支えるため働く心積もりだったが、父は「女性にもこれから学業が必要だ」と背中を押してくれた。終戦後は苫小牧女子高校に進み、その後男女共学実施で再編された苫小牧高校(現苫東高)にも通った。「医者を目指していたんだけど」とはにかみながら、勉強に励んだ日々を振り返る。

   「なんだ女か」。家庭や学校では感じなかった性差の壁が、突如として立ちはだかった。高校卒業後に入庁した苫小牧市役所では、給与面の差はもちろん、女性は就業時間より早く出勤して掃除やお茶出しの準備をした。「名前に子が付いてないから『てっきり男だと思った』と言われるのは日常茶飯事だった」という。

   そんなある日、一つの新聞記事に目が留まった。Business and Professional Women―。女性の社会的地位や職業水準向上などに取り組む組織「BPW」の存在を知った。間もなく、苫小牧市内でも結成の動きが出た。誘いを受け「二つ返事でオーケーした」。

   さまざまな職域の女性と毎月の会合はもちろん、著名人を招いた講演会なども精力的に実施。「活動を残す必要がある」と会報発行を提案し、編集作業にも力を注いだ。会長、副会長、事務局と要職を歴任。2009年3月に発行したクラブ会報17号の寄稿文タイトルは「恐れずに挑戦を~歩みは遅くとも~」。北畠さんは「いつでも意見が通るとは限らないが、声を上げ続けないと何も変わらないから」と力を込める。

   苫小牧市は13年、当時道内自治体初の男女平等参画宣言都市になった。市役所時代に後輩だった女性職員が部長職などを務め、欠かさず見る国会のテレビ中継では女性議員が活発に論戦する姿も目立つ。「寛容な世の中になりつつある」と感じる一方、近年はLGBTといった性的少数者への理解も急務だ。

   真の平等とは。「どれかの性が勝るのではなく、日本に地域性があるように互いを認め合っていくことが一番大切だと思う」と北畠さん。誰もが笑顔で明るく暮らせる社会を願いながら、後進たちの頑張りを陰ながら応援し続けている。

  (北畠授)

  北畠 瞳(きたばたけ・ひとみ) 1932(昭和7)年4月、青森県新城村(現青森市)生まれ。47年に苫小牧市へ移住し翌年、苫小牧女子高校に転校。3年時は男女共学となった苫小牧高校(現苫東高)で学んだ。卒業後は苫小牧市役所に入庁。仕事以外でもBPW苫小牧会長、苫小牧家庭生活カウンセラーみずの会会長、民生委員などを務めながら、市民の暮らしに寄り添ってきた。苫小牧市木場町在住。

過去30日間の紙面が閲覧可能です。