苫小牧市日吉町に本社を置く住宅建設会社、大鎮(だいしん)キムラ建設の創業者。中学生で大工の道を志したが、現役を退いた後に、父の母方の家系が、建築業に携わっていることを知り「因果を感じる。面白いものだ」と感慨深げに語る。
新潟県佐渡市(佐渡島)で生まれ、父の都合で6歳の時に苫小牧市に引っ越した。小中学生の時に住んでいた汐見町の平屋の向かいは建築業者の作業場で、長く切れずに出るかんなくずを眺めるのが好きだった。「大工に憧れた原点になっている」と振り返る。
東京五輪開幕に向け、国内が色めき立つ1964年。中学卒業と同時に、5年間の年季奉公で大工見習として市内の建築会社に就職した。入社2年目の冬、仕事がなく仲間3人で室蘭にアルバイトに行ったが、会社に戻ったのは自分だけだった。父の死去もあり、2年3カ月で一人前として認めてもらえ、18歳で棟梁(とうりょう)まで任せられた。
病弱な母が喜ぶ顔を見たい一心で持ち家を建てたが、完成を前に急死。結婚してその家で暮らしたが、独立資金を得るため家を売った。その際「母のために建てたはずの家は、親が僕にくれた最後のプレゼントになった」と感じた。また、この家で過ごした日々を胸によみがえらせ、涙を流す妻の姿に「家には家族の思い出が詰まっている」と身に染みた。
仕事のあてはなかったが78年、同社前身となるハウジングキムラを創業。「不思議なほどさまざまな縁に出会えた」と仕事に恵まれ、82年に大鎮キムラ建設有限会社を設立した。社名には地鎮祭の「鎮」を入れた。山を守るご神木が製材になり、家づくりに使われている。自然界の土地や木に宿る精霊を敬い、災いを平穏に鎮め、家族が幸せに暮らせる家づくりを目指す―との思いを込めた。
90年代に入ると、イラクのクウェート侵攻が始まり、油にまみれた水鳥の写真がテレビに映し出された。石油資材が不足、高騰すれば会社が破綻する―と直感し、不要な株や不動産の処分を急いだ。国内はバブル期で、銀行から「やっていることが、世間と逆行している」と指摘されたが、利益を確保していたおかげでバブル崩壊後の難を逃れた。
肩書が人を育てる―と、当時24歳だった次男・匡紀さんを社長にし、自身は49歳で会長に就いた。65歳で引退し、その後はゴルフをしながら作文、朗読などを楽しんでいる。「それでも埋まらない寂しさもある。苦労させられた仕事が一番だった」と振り返る。今も続けている陶芸は、失敗をしてもそれが味になるといい、「信念が、いろいろな出来事で揺らいだ人生。いまだに、揺らぎながら自分探しをしている」と穏やかにほほ笑む。
(高野玲央奈)
木村 一男(きむら・かずお) 1949(昭和24)年3月生まれ。新潟県の佐渡島出身。2019~20年に、自身の古希を記念し、半生をつづった自分史「鎖縁(くさりえん)1・2」を自費制作し、苫小牧市立中央図書館に寄贈している。苫小牧市ときわ町在住。