アーバン・ワーク代表取締役 久野 利広さん(73) 祭り成功へ情熱注ぐ 子どもの頃のわくわく感胸に 成し遂げた時の喜びが原動力

  • ひと百人物語, 特集
  • 2022年1月15日
「祭りを絶やさないためにも頑張りたい」と語る久野さん
「祭りを絶やさないためにも頑張りたい」と語る久野さん
苫小牧港開発時代に職場の仲間と、港まつりの仮装パレードで龍の舞を披露した(中央が久野さん)=1960年代後半
苫小牧港開発時代に職場の仲間と、港まつりの仮装パレードで龍の舞を披露した(中央が久野さん)=1960年代後半
「高松宮賜杯」の冠が付いた全国大会に出場した苫小牧港開発の野球部(柱の左横のユニフォーム姿が久野さん)=1972年
「高松宮賜杯」の冠が付いた全国大会に出場した苫小牧港開発の野球部(柱の左横のユニフォーム姿が久野さん)=1972年
港まつりの実行委員会メンバーから、還暦祝いに赤い帽子とTシャツをプレゼントされた久野さん(前列右から2人目)=2008年
港まつりの実行委員会メンバーから、還暦祝いに赤い帽子とTシャツをプレゼントされた久野さん(前列右から2人目)=2008年

  とまこまい港まつり、とまこまいスケートまつりなど苫小牧の一大行事から地域の夏まつりまで大小のイベントの企画提案や用品の調達、設営などを手掛ける有限会社アーバン・ワークを立ち上げ、今年で18年目を迎える。「お祭りが好きで、前に出たいタイプの人間。仕事やスポーツを通じた人脈を生かし、なんとかやってきた」。苦労しながらも、成し遂げた時の喜びも大きな原動力だった。

   苫小牧生まれで苫小牧工業高校を卒業後、1967年に苫小牧港開発に就職した。石炭の積み出し機械を扱うオペレーターとして働く一方、職場の野球チームで汗を流したり、地域行事にも参加したりと経験を重ねた。20代の頃、港まつりの催しだった仮装パレードに職場で出て、木製の長さ約10メートルの龍を仲間と一緒に手にして舞ったのも大切な思い出。「当時の港まつりの熱気はすごくて、沿道が人でいっぱい。歓声もうれしかった」と懐かしむ。

   しばらくして会社の石炭事業が縮小し、新規事業のイベントや家庭などで使う各種用品のレンタル事業に携わり、この経験がその後、独立して始めた今の仕事につながっていく。2000年から、港まつりの実行委員会事務局スタッフも務め、結果的に16年まで、裏方で港まつりを支えてきた。「いつでも相談に乗れるように」と毎回、記録してきた作業ノートを今も大事に保管している。

   ところがこの2年間は、新型コロナウイルスの影響で年間20~30件あったイベントの仕事も2割程度まで激減した。昨年8月、東京パラリンピックのため、苫小牧市内であった聖火の採火式の手伝いは、久しぶりの仕事だった。

   市から、研磨機でスケート靴の刃を研ぐときの火花を使いたいとの話を聞き、スケートまつり名物のしばれ焼き用ドラム缶に一度、その火を移し、苫小牧らしさを演出することを提案。当日は研磨機から出た火花を地元出身のパラアイスホッケー選手の須藤悟さんが使用済みスティックの先端に移し、ドラム缶に着火。その火を岩倉博文市長がトーチで聖火用ランタンに移し、無事成功した。

   実行委員会の1人として2月5、6両日開催に向け準備に入っていたスケートまつりは14日、感染の急拡大で中止が決まった。「コロナで仕方がないかもしれないが、ショックだ。来年はできるのか」と嘆く。

   それでも、「祭りをなんとか絶やさないで続けようとしている人たちがたくさんいるので、自分も頑張ろう、と思える」。祭りの独特の雰囲気に、わくわくした子どもの頃の思い出が忘れられない。「今の子どもたちにも楽しんでほしい」。そう願い、培った経験を生かせないかと考えている。

  (河村俊之)

   久野 利広(ひさの・としひろ) 1948(昭和23)年7月、苫小牧市生まれ。地域活動にも積極的に関わり、88年からスポーツ推進委員(旧体育指導委員)を引き受け、34年目に入る。明野柳町内会副会長を務め、町内会の夏まつりでは進行役でマイクも握る。苫小牧市明野新町在住。

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