1 小野一郎さん(苫小牧市錦岡、96) 死ぬ覚悟できていた、人間魚雷配備の地で任務

  • 戦後76年企画 記憶を受け継ぐ, 特集
  • 2021年8月9日
「命を投げ出すことに何のためらいもなかった」と小野さん

 日本の敗色が濃くなった、第2次世界大戦末期。日本軍は兵士が乗った魚雷を敵艦にぶつける特攻作戦に打って出た。人間魚雷とも呼ばれたこの特攻兵器で、140人を超える若い命が海に散った。

 「命令が下れば、何もためらわずに自分も命を投げ出していただろう」。人間魚雷「回天」が配備されていた宮崎県日向市細島の海軍基地で海岸警備の任に就いていた小野一郎さん(96)=苫小牧市錦岡=は、そう回顧する。回天作戦は軍の中でも極秘だったため、内容は詳しくは知らされていなかった。それでも、あすにも自分が特攻隊員に選ばれる可能性があると理解し、静かにその運命を受け入れる覚悟を固めていた。

 国のために死ぬことは当たり前だった。「死ぬのが怖いとか考えることすらできなかった。とんでもない時代だったよ」

 ■   ■  

 山形県で9人きょうだいの長男として生まれ育った。高等小学校を卒業後、父の仕事の関係で現在の岩見沢市に移り、郵便配達の仕事に就いた。

 命を賭して戦うことが名誉だと信じ、1944(昭和19)年9月、19歳で海軍の飛行予科練習生に志願。三重海軍航空隊に入隊し、ボート操縦や水泳、基礎体力向上などの厳しい訓練に明け暮れた。

 翌45年の春、海岸防衛の命を受けて鹿児島県指宿市の海軍基地に配属。ここで、爆弾を積んだ船が乗員ごと体当たり攻撃をする特攻兵器の存在を知った。特攻隊員には選ばれなかったが、兵器を海まで運ぶためのレールを見詰めて「俺もいつか、ここから海に向かう時が来るのだろうか」とぼんやりと考えた。

 ■   ■

 戦局が一段と激しさを増した7月、細島の海軍基地に移った。ここには、人間魚雷「回天」が配備されており、約200人の隊員の一部が特攻に備えて搭乗訓練を続けていた。自身は海上を監視する任に就いたが、上官から「お前たちも乗る時が来るかもしれん」と言われ、回天を見に行ったこともある。黒光りした筒状の船体に描かれた菊水の紋が、とても印象的だった。

 それから間もなくして終戦。この基地から回天が出撃することはなかった。しかし、別の基地では人間魚雷をはじめとする特攻兵器で大勢の兵士が戦死した。米軍機の空襲を受け、亡くなった仲間もいた。自分も受けるはずだった徴兵検査を通った同期生が南方送りとなり、帰ってくることはなかった。

 国同士の戦いの前では、人の命など消耗品に過ぎなかった。自分も消耗品の一つであることに、何の疑問も抱かなかった。その異常さに気が付いたのは終戦後、平和な暮らしを手にしてからだ。

 「戦争は人をおかしくさせる。だから絶対にしてはいけないんだ」

 ◇

 終戦から今年で76年。年月の経過とともに戦争の恐ろしさを直接経験した人たちが減っていく中、苫小牧市内に住む6人に戦争体験を語ってもらった。全6回。

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