コイノボリ大火の翌年、1922(大正11)年に苫小牧町は消防組詰所の建設、ガソリンポンプや腕用ポンプの追加購入、沼ノ端・錦多峰の私設消防組を設立するなど消防組織の改編や設備の導入を積極的に行った。一方で、火防線の設置や地番改正など、大火の教訓を生かした新しいまちづくりに取り組んでいた。
そのような状況下で、当時の人々が大火から1年後の5月1日をどのように迎えたのかが分かる資料が見つかった。
「来たる5月1日は、昨年の大災厄に相当する日である。警察署長から消防各部へ招集警戒等の依頼が来ている。5月1日は消防組全員が番屋(消防の拠点)に集まるように」。
これは、22(同11)年の4月29日、苫小牧消防組の組頭である小保方卯市が、消防組の部長3人へ宛てた連絡の控えである。最前線で大火と向き合った消防組は、「大災厄」に備えて全員出動の厳戒態勢を敷いてその日を迎えた。
また、大火の被害を免れた苫小牧東尋常高等小学校(現在の苫小牧東小学校)の沿革誌には、5月1日の欄に「鎮火祭」なる記述があった。内容や規模などの詳細は不明だが、この鎮火祭は大火後の数年間だけ、5月1日に行われていることから、おそらくコイノボリ大火と関係のある行事だったのだろう。
コイノボリを外に揚げなくなったこと以外にも、大火が人々に与えた影響はそこかしこに埋もれている。歴史を掘り起こすと、災害の爪痕から目をそらさずに向き合う人々の姿があった。
(苫小牧市美術博物館学芸員 佐藤麻莉)