苫小牧市美術博物館で7月4日まで、企画展「コイノボリ大火と苫小牧消防史」が開かれている。同館の佐藤麻莉学芸員が、大火を中心に市の消防史を5回にわたって解説する。
1894(明治27)年、消防組規則の制定を契機に全国で公設消防組が次々につくられた。
苫小牧では、81(同14)年から89(同22)年に公的消防組が、92(同25)年に私設消防組が設置され、94(同27)年に正式な公的機関として公設消防組(苫小牧消防組)が誕生した。苫小牧の消防組織は、公設消防組の設立を起源としている。
消防組の発足当初は「刺子半纏(はんてん)に、腕には刺青、頭に豆絞りといういでたちで、勇み肌を売り物に(中略)村の人々から親しまれるよりも、むしろ恐ろしがられる方が先(『小保方卯市翁の回顧』)」で、しばしば村民から批判されることもあったというが火事が起きれば、刺子はんてんを身にまとい、水をかぶって火の中に飛び込んだ。
消防被服としての刺子はんてんは、木綿を数枚重ねているため生地が厚くて丈夫である。重さは平均で約2キログラムとされ、火事場では水を含んだ状態(元の重さの2、3倍になる)で消火活動に当たった。肩から腕まで続く赤い線は、着る者の立場を表した。最高責任者である組頭が3本、小頭は2本、消防手は1本であった。はんてんのほか、帽子、股引、頭巾、手甲、手鳶(てとび)、鷹匠(たかじょう、地下足袋の類い)、提灯、三尺帯、会員章、名札が個人の装備であった。
大正時代を迎える頃には、消防組は人材を刷新するとともに、王子製紙株式会社苫小牧分工場操業に伴う人口の増加に対応するため、消防組の体制を二部編制とし、質・量共に組織を強化していった。
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午前9時半~午後5時。月曜休館。観覧料は一般300円、高校・大学生200円、中学生以下無料。