東日本大震災の後、宮城県南三陸町に多くのボランティアの協力で誕生した観光スポットがある。志津川地区袖浜の「北の恋人岬」。佐藤良夫さん(73)は優しく語り掛けるように話した。「震災で友人や大事なものを失ったが、全国から支援が届き、多くのつながりができた。お金では買えない財産」と、しみじみと振り返る。
佐藤さんは▽語り部▽カキ小屋「南三陸牡蠣倶楽部」の店長▽旭ヶ丘行政区(町内会)顧問▽行政区内の1人暮らしの高齢者の見守りや公共施設の草刈りなどを行う旭友会会長―とさまざまな肩書を持つ。北の恋人岬プロジェクト代表もその一つだ。
地元の小中高校を卒業後、航空自衛隊に入隊。2002年の定年まで日本全国を飛び回った。11年3月11日の震災時は、地元のスーパーで買い物中だった。立っていられないほどの激しい揺れが収まるとすぐさま車に乗り込み、ラジオで大津波警報を聞いた。1960年のチリ地震津波を思い出し、それ以上の波が押し寄せると直感したという。
役所、病院、多くの商店、住宅が立ち並んでいた市街地の志津川地区を16・5メートルの津波が襲い、ガスや電気も止まった。佐藤さんは区長に代わって炊き出し、津波被害に遭わなかった地区まで出掛けての水くみ、避難所へのおにぎり配布―と行政区を指揮した。2012年に新たな区長に選ばれたが、人々が集える憩いの場がなくなってしまったことを気に掛けていた。
かつて「公園で日の出を見るとそのカップルはうまくいく」と言われた明神崎。デートスポットとして多くの若者でにぎわっていたが、約40年前に近くの海水浴場が漁港に再整備されると人々の足は遠のき、荒れた地となっていた。青春時代によく訪れたという佐藤さんは、変わり果てた場所に寂しさを感じ、ここを憩いの場として復活させようと15年9月、北の恋人岬プロジェクトを開始した。
記念碑や鐘の設置が終わった18年7月には除幕式を行った。記念碑、鐘をはじめベンチ、あずまや、花木など北の恋人岬にあるものすべてがボランティアからの贈り物だ。春はチューリップやスイセン、夏はヒマワリが佐藤さん宅に贈られてくる。企業、学校などから花木の植え替えや看板作りのボランティアに訪れる人も後を絶たず、1年に1000人以上に上る。
「震災がなければ出会うことのなかった人たちが、今でも会いに来てくれる」と人のつながりの大切さをかみしめる。
10メートルのかさ上げ工事が行われた町では、震災復興祈念公園も一部開園した。3月11日は同公園の「祈りの丘」で亡くなった人々に手を合わせ、町の復興を伝えたいという。「震災を風化させないように語り継いでいきたい。私たちと同じ思いはさせたくない」と力を込めた。