半世紀以上にわたり、道内外で道路の舗装工事を手掛けた。夜間や冬の厳しい環境でも工事が行われ、作業員が労働災害で命を落とす事例も見聞きしてきた。安全第一を誓い、毎年、早朝の安全集会で事故防止を呼び掛ける。数々の地域貢献事業にも取り組む日々だ。
1945年3月、静内町(現・新ひだか町)で生まれた。その後、苫小牧市に移り住み、苫小牧東小、東中、東高に通った。「近所の子どもと野球をやったり、平凡な少年時代だった」と振り返る。父親が建設業に従事していたこともあり、中央大学に進学後、自然と東京の建設会社に入り、3年間の勤務を経て69年4月、道路建設(当時の本社苫小牧市、現札幌市)に入社した。
多くの現場で道路舗装に携わったが、当時は防寒着の性能が今ほど良くなく、冬場は寒さが身に染みた。断崖絶壁の道道に型枠を設置する作業もあった。夜間の工事で体力的に苦しかったことも忘れられない。家族と過ごす時間は何より大切だが、土、日曜日に働くことも少なくなかった。
77年7月、関連会社に出向して造園事業に関わった後、87年12月に道路建設常務に就任。その後、専務を経て97年11月から社長となった。道路整備の魅力について「人の役に立つ仕事。舗装した道路は残り続けることが多く、かつて施工した道を通りたいと思うようになる」と語る。
経営者として、社会の役に立ちたいとの思いを強く持ち、毎年のように市内のホテルで著名人を招いた講演会を開いた。秋には、市緑ケ丘公園金太郎の池からオートリゾート苫小牧アルテンまで歩くウオーキング大会も開催してきた。
メインスポンサーとして女子アイスホッケーチーム「道路建設ペリグリン」を強力に支援し、社長を務める関連会社景観緑化が運営するガーデンショップ付近の庭園を一般開放する。2002年から10年まで4期8年、日本道路建設業協会北海道支部長として業界の発展にも貢献した。
20年5月に社長を退き、会長に就任した。会社としての課題は公共事業の減少。「舗装量が以前の3分の1にまで減り、売り上げを増やすのが大変になっている」と指摘する。
道路工事は官公庁の発注が主体で、工事量の増減は国や道、市の予算に左右される。道路舗装に使用するアスファルト合材のプラントは、全国的にこれまで各社が所有していたが、今は合同のプラントで、各社が使用する合材を作るようになったという。
経営環境に加えコロナ禍で厳しい状況が続く中、会長としてこれからも経営陣を支える考えだ。若い世代には「本や新聞を読むことで世の中が分かる。勉強することが大事だ」と伝えたいという。
(室谷実)
宮﨑洋二(みやざき・ようじ) 1945年3月、静内町(現・新ひだか町)生まれ。中央大学中退後、東京の建設会社を経て、69年4月、道路建設に入社。97年11月から2020年5月まで社長を務めた。02年から10年まで日本道路建設業協会北海道支部長。苫小牧市三光町在住。