数寄屋造りの鵡川神社(上)  皇太子嘉仁親王が御休憩

  • THE探求 歴史から伝える「むかわ学」, 特集
  • 2021年2月18日
1919(大正8)年ごろの鵡川神社社殿=様似郷土館所蔵品

  様似町の様似郷土館で戦前の鵡川村に関する古写真を拝見させていただきました。その中の1枚に鵡川神社の写真があり、1919(大正8)年8月15日に霜口製炭部が就業安全大祈祷を催した記念写真でした。鵡川村礎基35年記念写真帖(1928年刊行)の紹介文によると、創業者の大廣政太郎氏が17(大正6)年に鵡川に来て、22(同11)年の北海道鉱業鉄道(後の国鉄富内線の前身)開通に先立って、芭呂澤(ばろざわ=現在のイクベツ沢)に拠点を移し、原木の搬出や製炭でにぎわった芭呂澤の駅の整備に尽力したことが紹介されています。

   写真の鵡川神社は18(同7)年に公認を受けた村社で、11(明治44)年に建築されました。現在の鵡川神社は鵡川高校の近くにありますが、96年より以前は今のAコープセレス店がある敷地の中にあり、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が北海道を行啓される時の御休憩所の一つとして、特別に道費を充ててご用意したものであると伝えられています。

   苫小牧から軽便鉄道のお召し列車に乗車して鵡川で停車、その後お召し馬車に乗り換えて日高方面へ進む旅程でした。「北海之教育」第224号によると、11年9月7日、午前9時50分軽便鉄道御召換御発車、同11時40分鵡川御着車~鵡川御休憩所御晝餐(さん)、午後1時25分鵡川御馬車御発、同3時15分門別御旅館御着のスケジュールとなり、鵡川では村の入口に設置した奉迎門に沿って、住民一同が整列し、煙花を打ち上げてお迎えした様子が紹介されています。

   道立文書館所蔵の鵡川御晝餐休憩所平面図を見ると、敷地の東側に假(仮)停車場が設けられており、殿下はそちらで列車を降りて御休憩所に向かったようです。御休憩所の造りは御車寄、共進所、便殿、建物の外周を囲む廊下、厠(かわや)からなり、書院造りの便殿の床の間に、ブナの木板と地元の名士沼崎啓司氏の備前長船の刀を飾り付けたということです。

   廊下は最長四間ある長い木板を使った造りで、同時期の建築物として知られる日高町門別本町の飯田家住宅主屋(国の有形登録文化財指定)の廊下の造りとよく似ています。

   御休憩所の周囲には、宮内省職員や地方高等官の控所と湯沸所があります。そして現在の鵡川交番の東側に、明治時代の鵡川小学校があり、校庭で馬車と馬の管理を行っていたようです。

  (むかわ町教育委員会、田代雄介学芸員)

   ※第1、第3木曜日掲載

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