(4)村上 冨太さん(96) 「国のため」当たり前の時代 支給品は毛布と竹の剣

  • 特集, 終戦75年企画「経験者からのメッセージ」
  • 2020年8月15日
戦地での経験を語る村上さん

  通称”赤紙”と呼ばれていた薄紅色の召集令状が手元に届いたのは、終戦4カ月前の1945(昭和20)年4月22日、村上さんが21歳の時だ。

   愛媛県大洲市に生まれ、9歳の時に家族が現在のむかわ町穂別に農家として入植。村上さんはそのまま愛媛に残り、尋常小学校を卒業後は歯科医院で働いていたが、16歳の時に来道。室蘭市内の製鋼所へ就職し、戦車の修理や戦艦の甲板製作に従事していた。召集令状を手にしたのは、忙しい仕事に汗を流す日々を送っていた頃で「当時は教育で洗脳されていたので、戦争に行って死ぬことが本望と思っていた。不安に感じることはなかったんです」と振り返る。

   召集令状が届いたその日に独身寮をたち、列車や連絡船を乗り継いで命じられた陸軍の部隊がある香川県へと急いだ。着任後、高知県へと移動したが、待っていたのは土佐湾防衛を目的とした壕(ごう)をひたすら掘ること。毎日午前6時に起床し、日が暮れるまで作業に当たった。時には3キロ先の山から壕の支柱に使う木材を運搬することもあるなど、肉体を酷使し続けていたが、それでも「国のために働くことが当たり前の時代だった。つらいとは思っていなかった」。

   ただ、太平洋戦争の末期にあってはあらゆる物資が不足していた。入隊時に支給されたものはわずかに1枚の毛布だけ。剣も与えられず、敵兵が来た時に戦うための武器は先を斜めに切っただけの竹だった。その後、ようやく渡された剣もひどくさびつき、「さやから抜くことさえもできなかった」という。

   そんな積み重ねの中で戦況も刻々と悪化していき、仲間と共に信じていたはずの「いつか神風が吹く」という思いは徐々に薄れ始めていく。村上さん自身も「事態が好転するとはどうしても考えられなかった」と当時を語る。

   敗戦を伝える玉音放送があった同年8月15日。中隊長から「天皇陛下から重要な発表がある」と部隊全員が宿舎に集められた。緊張の中でラジオのスピーカーに耳を澄ましたが、聞こえてくるのは雑音ばかり。内容を聞き取ることはできず「仲間内では激励の言葉だった、といううわさが流れたほど。まさか終戦を知らせるものだとは思わなかった」。

   命をささげるつもりで来た戦地。終戦直後、上官から自決を促すように手りゅう弾を手渡されたが、戦争が終わった途端に命が惜しいと思う気持ちに変わったという。

   壮絶な時代を経験した一人として「戦争はない方がいい」と思う一方、「止められないことがあるかもしれない」という葛藤もある。ただ、強く思うのは平和な時代が今後も続いてほしいということ。「これは人類共通の考えだ」と力強く語った。

  (石井翔太)

  (おわり)

   メモ 1924(大正13)年生まれ、愛媛県出身。戦前戦後に室蘭製鋼所(現日本製鋼室蘭製作所)に勤務。その後、むかわ町の実家に戻り、農業に従事。53歳の時に苫小牧に移住し、市内の家畜飼料会社で働いた。

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