(3) 加納 千鶴子さん(91) 開戦告げる緊迫の放送 物資不足、増える援農時間

  • 特集, 終戦75年企画「経験者からのメッセージ」
  • 2020年8月14日
「戦争のない世界を」と語る加納さん

  1929(昭和4)年3月1日、王子製紙苫小牧工場のボイラー技師として働く父と優しい母の下、4人姉妹の三女として生まれた。太平洋戦争があった41年から45年は多感な少女時代。戦時下の援農体験や軍用機の整備修理工場があった千歳の第41海軍航空廠(しょう)で勤労奉仕をした当時の記憶がよみがえり、「私はあの頃、軍国少女だった」と語る。

   41年3月、苫小牧東小学校を卒業後、4年制の苫小牧高等女学校(現・苫小牧西高校)に入学。この年の12月、日本は米国に宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。8日、真珠湾攻撃の朝、校内放送のラジオから大本営発表で米国との開戦を告げる放送が流れたが、「緊迫した声で何が何だか分からなかった」という。

   2年生の時、敵国語の英語が廃止になった。得意科目だった体育は軍事教練に変わり、弓道やなぎなたに力が入った。勉強も体を鍛えるのも天皇陛下のためと教えられた。

   物資不足になると学校農園で根菜を作るようになった。働き手が兵隊に取られると、援農に駆り出される時間が増え、授業は次第に減っていった。

   真夏の白老町では、広大な大根畑で間引き作業をした。楽しみは食事。農家から提供されたイモやカボチャなどをおなかいっぱい食べられたからだ。「これがあったので援農は大歓迎だった」。当時、戦況の変化や悪化などは何も知らされなかった。我慢の先にきっと勝利があると信じて疑わなかった。

   4年生の時には、国鉄や千歳の海軍航空廠へ勤労奉仕に出た。4人一部屋の全寮制。国の施設なので食事には困らなかった。国防色(カーキ色)の作業着に身を包み、出退時は隊列歩行。厳しくも肩を寄せ合いながら仲良く過ごす日々を送った。月に1~2度、本校から国語教諭が訪ねてきたが、教科書を手にすることはなかった。

   45年3月、式典や証書授与もなく女学校を卒業。その後も残って勤労奉仕を続けたが、夏のある日、空襲警報が鳴った。上空にはB29爆撃機の姿。「いつ爆弾を落とされるかと思うと、生きた心地がしなかった」。

   8月15日の昼、大事な放送があると全員がラジオの前に整列した。職場では玉音放送を聞いた徴用工たちが大きな炉に火をおこし、仕事用具のやすりを入れて「小刀を作り、米兵が来たら刺す」と息巻いていた。火の照り返しを受けた顔が「鬼のようで恐ろしかった」と当時を振り返る。

   戦後間もなく、16歳で結婚。18歳の時には子どもも生まれた。結局あの戦争は何だったのか―。75年たった今も疑問は尽きない。

   「たくさんの人殺しがあっただけ。そんなものはもうたくさん。これからも戦争のない世界であってほしい」

  (半澤孝平)

   メモ 1929(昭和4)年、苫小牧生まれ。16歳で結婚後、1男2女をもうける。王子主婦連の会長を務めた後、35歳で新日本婦人の会苫小牧支部の立ち上げに関わり、子育て環境の改善や世界平和を求める活動を展開。昨年12月に支部長を退任した。

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