捨てられた子どもたちのことを鮮明に覚えている。終戦当時は3歳。「母親はよく私を捨てないでくれた。感謝している」。樺太からの引き揚げは壮絶だった。
1941(昭和16)年8月、樺太の港町、恵須取(えすとる)町(現ウグレゴルスク)に6人きょうだいの末っ子として生まれた。父は荷揚げが仕事で、母は料理上手の優しい人。一軒家に住む裕福な家庭だった。
穏やかな日々。だが45年7月ごろ、状況の変化を感じ取った。19歳年上の姉を筆頭に、勤め人のきょうだいたちの表情が険しくなった。「優しかった姉の目つきが鋭くなった。勤め先で戦況を聞いたのかもしれません」。
8月9日、ソ連が日本との中立条約を破り日本領の樺太などに侵攻。日本人は逃避を余儀なくされた。田村さんたちもわずかな着物と米などを持って逃げた。父は引き揚げに同行しておらず「ソ連の捕虜になっていたのかもしれない」。母や姉たちはソ連兵に暴行されないよう髪を切り、男のような「ざんぎり頭」。母や姉に背負われながら道をたどり、港に向かった。
「昼夜を問わず、ソ連の戦車が走る低い音が聞こえ、恐かった」。追われるように、誰もが先を急いだ。川の水をくみ、やかんで米を炊いた。夜は兵隊に見つからないよう虫だらけの草むらで眠った。防空ずきんをかぶり、誰もがぼろぼろの服。夜明けに起きて再び歩みを進めた。道端にうずくまり動けない人もいた。
目に焼き付いた光景がある。道端に掘られた深さ30センチほどのくぼみの中で乳児が泣いていた。そんな光景がいくつかあった。田村さんは「なんで泣いているの?」。母は「見てはだめ」。さらに問うと「連れて行けないから」と短く答えた。「見た時はショックだった。母親たちはつらく、後ろ髪を引かれる思いだったはず」。泣き声で誰かに拾われ、生きてほしいとの願いだったのかもしれない。
引き揚げ後は母の実家がある桧山管内江差町に家族で身を寄せた。玉音放送も同町で聞いた。ソ連で抑留されていた父は無事帰還したが、痩せこけて抑留中のことを一切話さず、家族もあえて聞かなかった。
きょうだいで唯一の男性で、樺太の王子製紙工場に勤めていた兄、勝雄さんは45年夏に特攻隊に志願。フィリピンでの敵艦攻撃で戦死した。19歳だった。引き揚げ後、家に届いた白木の箱には小さな勲章が一つ。母は56歳で亡くなるまで息子の死を信じなかった。
戦後は妹も生まれ、田村さんが小学5年生の時、家族で苫小牧に移住。結婚後は子ども4人、孫6人に恵まれた。幸せな日々を過ごしてきたと実感するが、「戦争はだめ。人生が狂ってしまう。子どもたちがあんな目に遭うのはいけない」と語気を強めた。(平沖崇徳)
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終戦から75年。平和な時代を生きる私たちにとって、戦火をくぐり抜けた世代から話を聴く機会は徐々に少なくなっている。悲惨な出来事を忘れないため、そして次代へと語り継ぐために、この地域に暮らす経験者たちに当時の記憶を語ってもらった。(全4回)
メモ 苫小牧東小、弥生中学校を経て、札幌市内のタイピスト学校に通った。卒業後は印刷会社に勤務。25歳で結婚。苫小牧市内で民生委員児童委員を担ったほか、現在は北栄町の老人クラブ、北栄華クラブの会長を務める。