元大門歯科医院院長  大門 千勢子さん(83) 医院受け継ぎ懸命に 夫と共に市民の口腔の健康守る 患者さんの存在「財産だった」

  • ひと百人物語, 特集
  • 2020年7月4日
旅行を楽しみ、悠々自適の生活を送る大門さん
旅行を楽しみ、悠々自適の生活を送る大門さん
大学時代の学友たちと大門さん(右端)=1959年ごろ
大学時代の学友たちと大門さん(右端)=1959年ごろ
鳥取県倉吉市の中学校を卒業して間もない15歳の大門さん=1951年3月
鳥取県倉吉市の中学校を卒業して間もない15歳の大門さん=1951年3月
大門歯科医院で働き始めた大門さん(中央)=1963年ごろ
大門歯科医院で働き始めた大門さん(中央)=1963年ごろ
苫小牧市表町にあった大門歯科医院と隣接する住宅(右)=1958年ごろ
苫小牧市表町にあった大門歯科医院と隣接する住宅(右)=1958年ごろ

  1943(昭和18)年、苫小牧市表町18番地(当時)に開業した大門歯科医院を76年5月に亡夫から受け継ぎ、96年3月の閉院まで、30年間にわたり歯科医として市民の口腔(こうくう)の健康を見守ってきた。閉院後の現在も同じ町内に居を構え、海外旅行やハイキングなど趣味に人生をささげる。

   36年、鳥取県倉吉町(現倉吉市)で、歯科開業医を営む倉繁家の6人きょうだいで8歳上の兄に次ぐ長女として生まれた。42年、市街の眺望が得られる打吹(うつぶき)山の麓に建つ同町立成徳国民学校(現市立成徳小)に入学。毎日のように近くの打吹公園で裸足で少年たちと駆けっこをし、チャンバラごっこを楽しんだ。

   48年、同町立東中学に入学後は100メートルの短距離走選手に選ばれるなど陸上競技で活躍した。51年、県内指折りの進学校、県立倉吉東高で学ぶと勉強に身を入れるようになり、毎日予習復習を欠かさなかったという。

   「父は日頃から『女性も一人で生きていかなくてはいけない』『教育は人生の財産になる』と言っていた。おかげできょうだい全員、大学を卒業できた」と振り返る。高校卒業後は上京して日本大学歯学部に入学。6年間、歯科医になるための研さんを積んだ。

   63年、26歳の時、大学時代に知り合った同級生の大門保男さんと結婚。保男さんは大門歯科医院の2代目で、初めて苫小牧で暮らすことになった。当時は工業港が誕生したばかり。大きな発展の時代にありながら、まだ市内に歯科医は少なく、夫と共に患者の診察に明け暮れる日々だったという。

   3人の子どもを育てながら、保男さんの両親と一緒に暮らす毎日。ところが76年5月、40歳の時に保男さんが脳出血で急死する。「ホテルで会議中だったと聞いた。あまりに急で当時の記憶は色が付いていない。夫の両親と子ども3人を抱えながら、20年は何が何でもやり遂げようと自分に誓った」と話す。

   実家から「帰って来ては」という誘いもあったが、「子どもにとっては苫小牧がふるさと。ふびんで離れられなかった。夫と義父が残してくれた患者さんの存在も大きな財産だった」といい、「今でも苫小牧に残る決断をしたのは正しかったと信じている」と言い切る。

   20年は続けようと誓った歯科医院は、結局30年続けた。96年に「集中力が途切れる」と感じ、70歳で閉じた。長男は現在、市内の病院で小児科医、長女は東京で歯科関係の講師、次女は苫小牧市内で保育士として働いている。

   閉院後は、大学時代の山岳部の仲間や混声合唱団の友人たちと連絡を取り合い、中央アジアやミャンマー、トルコ、エジプトなどを旅行し、趣味を満喫している。毎年3月にはニセコでスキーを楽しむが、「今年はコロナがあって中止した」と肩を落とす。もし脅威が去ったら、秋にも何かしようと話し合っている。

  (半澤孝平)

  大門 千勢子(だいもん・ちせこ) 1936(昭和11)年11月、鳥取県倉吉町(現倉吉市)生まれ。60年日本大学歯学部卒。趣味の旅行やハイキングは新型コロナウイルス感染拡大による自粛ムードのため当面お休み。苫小牧市表町在住。

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