つらい葬式がある。急病や事故、遺族席の若い配偶者と幼子、送る親の気丈な笑顔―。新聞のおくやみ欄の、死者の年齢を見て、いくつかを思い出す。
われの子の 愛せし花の記憶なし 墓の廻りに 玉砂利を敷く
(2013・8・13)
7年前の冬に、教師だった長男を亡くした高校時代の先生から、折々に書き留めた歌が送られてきた。学生服やセーラー服姿の中高生、背広を着た教え子たちが会場を埋めて、ふっくらとした、明るい笑顔の遺影を見上げる葬式だった。教え子のひとりが教えてくれた。「父を病気で亡くした時『寂しくなったらいつでも来い』と丸くて温かいおなかを触らせてくれました」。そんな先生だった。
父親と息子は、どんな話をして過ごすものなのだろう。教師だった父の背中を見て育ち、追うように教職に就いた息子との間でも、「もっと話しておけばよかった」と思うことがたくさんあったようだ。墓を訪れた父が、息子の好きな花は何だったろうか―と改めて考えて、会話の欠落に気付く。
吾子逝きて 五年動きて今朝止まる 不意に形見となる腕時計
(2018・1・20)
人にも物にも、生きられる時間の区切りがある。分かっているつもりでも、別れの時を思念の向こう側に置いて過ごし、その訪れに驚く。動かぬ時計を何度も耳に当て、何度も揺すってみる。あの日のように。そして、諦める。(水)