先端技術産業を中核とした産・学・住一体の街づくりというテクノポリス構想を通産省(現経産省)が打ち上げたのは昭和58年。重厚長大からの方向転換を迫られていた苫東を抱える苫小牧には垂涎(すいぜん)ものだった。運動の結果、26枠最後の圏域として指定されたのが平成元年だった。
■最終26番目の指定
2月14日、横路孝弘知事、鳥越忠行苫小牧市長のほか千歳、恵庭の市長、早来町(現安平町)助役が「道央テクノポリス」指定の承認書を受け取るためそろって通産省に出向いた。「北のハイテク都市へ」と、新聞に活字が踊った。
複数市町を圏域とし、国は圏域でつくった計画が合格なら指定して支援する。地元テクノ財団を通した企業への助成などで「産・学・住」を備えた地域づくりをする。
■想定人口34万人
道央テクノ構想では、平成7年までに圏域の工業出荷額を2倍に、工業従事者を約1・5倍の2万4500人に、人口を4万5000人増の34万人にする。後継の堀達也知事は「地元市町に、経済界の尽力で着実にテクノ建設が進んでいる。工業出荷額は1・4倍、中でも金属加工型産業は自動車関連産業の立地で2倍になった」(平成10年1月1日付、苫民)と評価した。
しかし、工業出荷額も人口(平成10年の圏域人口は約33万3000人)も目標に届かなかった。また、想定外のトヨタ進出による大きなかさ上げを考えるなら、テクノ自体はどうだったのか。
■市長のつぶやき
後に鳥越市長は「国は、目新しい構想をつくっては地方を陳情させる。そのためにどれだけ時間をかけたことか」とつぶやいた。
テクノポリス法の主務大臣は通産、建設(現国交省)、農水など多岐にわたり、地方は折衝に多くの時間と労力を費やした。官庁回りと企業誘致に明け暮れ、その割に地域づくりは国の構想の枠内でしかできない。外来型の構想には無理が多く、内発型のようなたくましさに欠ける。「バラ色のイメージが先行する中で何ができるのか」(平成5年12月20日付苫民)と危惧する声が出始めたのはわずか数年後のことだ。
(一耕社・新沼友啓)
《国の総合開発計画と苫小牧》▽全国総合開発計画(昭和37年、拠点開発)新産業都市指定▽新全総(昭和44年、大規模プロジェクト構想)苫東開発計画▽三全総(昭和52年、定住圏構想)▽四全総(昭和62年、交流ネットワーク構想)道央テクノポリス(平成元年)