天気予報は年中無休で情報をお届けする必要がある、大きなくくりでの社会インフラと言ってもいいものであるかと思うのですが、その裏には、情報を届ける人の存在が不可欠です。その一翼を担うようになってから、早くも10年目の年末年始を迎えることになりました。ある年は、大みそかから元日に日付をまたぐ瞬間を職場で迎えた年もありましたし、ここ5年のうち4年は、元日の明け方から勤務でした。
元日というと、初日の出を見られるのかどうか、というのが天気の話題の中では一番の関心事になるかと思います。この時季は冬型の気圧配置になりやすいため、苫小牧を含む太平洋側は初日の出がみられる可能性が道内の中では相対的に高いですが、札幌など日本海側は見られることがかなり少ないと、住んでいて実感としてあります。今年は苫小牧では初日の出が見られたようです。
昨年の元日の札幌は、日の出の時刻は7時6分でしたが、冬型の気圧配置の影響で、6時の気象台の観測でも天気は曇りとなっており、初日の出は見られないかと思われました。ところが、上空を覆う雲と建物の並ぶ街並みのわずかな隙間から日が昇ってくるのを市内でも見られる場所があり、初日の出を確認できた方は、上空の曇り空とは対照的な気持ちであったかなと思います。
この話は極端な例ですが、実際に起きている気象現象と、そこで人々がどう感じるか、というのは別物で、天気予報では、その日「どう感じるか」を、いかに多くの人に合わせられるよう伝えるか、ということの方が重要と思っています。この「どう感じるか」、というのを「印象値」と私は定義し、これを高められる解説になるよう心掛けています。
具体的には、雲が空全体を覆っていても、空の明るさを十分に感じられたり、場合によってはどちらかというと晴れているように感じられる天気のことが時々あるかと思います。上空を覆う雲の面積が9割から10割を占める場合、天気は曇りと分類されますが、そういったときに、単純に「雲に覆われるでしょう」と解説すると、その日一日を過ごした人は、「結構、日が差していたけどな」と感じ、結果的に、「天気予報はよく外れる」という「印象」になってしまうと考えています。そういったことを防ぐために、曇りの予想であっても、「雲は広がりやすいですが、雲を通して日差しは感じられるでしょう」というふうに解説することがあります。(気象予報士)