「昭和の街角風景」は、今回で終了する。昭和30年代前半、特に昭和30、30年の写真を多用したのは、社会が「敗戦」の暗さを引きずりつつも希望に向かって進もうとする時期の始まりであったこと、さらに具体的には苫小牧でテレビ放送が一般化する直前の時期であったことなどによる。以降、子どもたちや家族、街の風景は大きく変わり、インターネットとスマホの出現でさらにその風景は、跡形も無いほどに変化した。テレビもネットもスマホも無い時代、どんな街の風景の中に子どもたちの夢と笑顔がどんなふうにあったのか。その笑顔の意味をわずかにでも感じていただけたなら、筆者の狙いは通ったことになる。以下、最終話。
■次郎物語
昭和30年11月10日のこと、苫小牧の福祉事務所に東小学校の先生に付き添われて、2人の少年がやってきた。札幌から野宿と徒歩で苫小牧にたどり着いたのだという。話を聞けば、以下のようなことだった。
2人は、中学2年生と同3年生の親友同士。親と死に別れたり家庭の事情があったりして児童養護施設に入っていたが7日、施設内の映画会で上映された「次郎物語」を見、無性に母親が恋しくなって、8日朝起床とともに施設を抜け出し、母親が働いているはずの函館を目指した。国道を、恵庭までは借りた自転車を2人乗りし、自転車がパンクしてからは歩いたり通り掛かったトラックに乗せてもらったりして、千歳にたどり着いたのが同日午後のことだった。
■先生を頼って
ここで思い出したのが、1人の少年が以前1年間担任してもらった「小泉先生」のことで、その家を探して訪ねた。先生とどんなやりとりがあったのかは分からないが、果物などをごちそうになり、その夜は野宿。たき火で寒さをしのいだ。翌9日、徒歩で苫小牧に向かい、途中の農家でご飯を食べさせてもらい、道端の畑の大根を失敬して空腹を満たした。午後8時、2人は苫小牧東小学校の「亀谷先生」宅を訪ねて、事情を話した。一方の少年が1年間だけ担任をしてもらった先生だった。
先生は2人を諭し、その夜は自宅に泊め、翌朝、福祉事務所に同行した。この時2人の表情に暗さは無く、むしろ明るく、「施設の待遇に不満があったわけではない。映画に感動し、無性に母に会いたくなった」と話したという。先生と職員の説得で2人は函館に向かうことを諦め、「勉強はちゃんとします」という言葉を残して札幌に帰っていった。
この出来事があってから2日後、今度は母親を探して日高管内厚賀の山間から2人でやってきたという小学5年生と同1年生の少女が、苫小牧駅前交番に保護された。警官たちが母親探しに奔走したが見つからず、定められた保護期間が過ぎてもなおしばらく警察署で寝起きさせて、母親を捜した。
さて、これらの出来事をどう見るか。時代が与えた不幸であろうか、人情が引き寄せる幸であろうか。
■子どもたちの夢
これらの出来事の1カ月ほど後の新聞紙面に、弥生中1年生の男の子の作文が載っている。彼は、「10年後」の世界と自分を次のように夢見る。
「もし大学に入っていたら、東京(略)の大学だろう。その頃は世の中も落ち着いて、日本だって今よりずいぶん良い国になっているだろう。ソ連とアメリカが仲良くなっていればバンザイだ。人間が水爆で滅びる心配が無い。そうしたら、水星も火星も探検できる。人間全部が本当に楽しめる世の中になる。僕の両親は六十代、七十代になるから、僕が働き手になる。今の世の中より数倍も数十倍も良くしていく。今の子供が大臣になり、重役になり、技術者になり、科学者になる。夢を実現させるために僕たちは頑張らなければならない。大人も、子供の夢を実現させるために頑張ってください」
さて、今はどうか。昭和30年代を夢に向かって生きた子どもたちは、今や70代を前後する。膝が痛い、腰が痛い、物忘れが悲しい、年金がどうの。それは分かるけど、でも夢をかなえただろうか。孫子の夢がかなう世の中になっただろうか。もしそうではないとしたら、昭和の子どもたちの責任として、いや、意地として、何をなさねばならないのだろうか。
(一耕社・新沼友啓)
1月からは郷土を形づくる山河を巡り、その魅力に触れる新企画「郷土の自然誌」を第2、第4月曜日に掲載します。
子どもたちがそろって露店を囲んでいる(本欄の上の写真)。これは駄菓子屋さんのおもちゃバージョンか。この時代、こういう行商のお店があちこちにあったという。おもちゃを目の前にした子どもたちの表情に引きつけられる1枚だ。
小学校高学年ぐらいの男の子は何をのぞいているのだろうか。小さな子たちからもワクワクした感じが伝わる。今の子どもたちなら、おもちゃを見てワクワクするのはせいぜい小学校低学年ぐらいまで。遊びの中心はゲームやユーチューブ。機械さえあればどこでもいつでも遊べる。「おもちゃを手に取って遊ぶというのは小さい子」という感覚にすらなる。
この頃の子どもたちは、わずかなお小遣いを握りしめて露店へ行ったという。大体10円、30円もあれば欲しいものが買えたらしい。子どもたちは5円玉や10円玉を握りしめ、何に使おうか、どれを買おうかと頭を悩ませた。お金はないけど、珍しいものを見に行くこともあったそうだ。
露店の商品は紙風船や万華鏡、コマや、竹でできた弓矢や吹矢など。ブリキ製の船などもあった。この品ぞろえ、今のお祭りのくじ屋さんで見る景品によく似ている。
今なら、おもちゃが欲しい時には、大人と大きなお店に行くか、インターネットで購入する。子どもたちだけでおもちゃを買いに行くということはまずない。
いつの時代でも子どもたちのキラキラした目は魅力的だ。今の子どもたちが、ワクワク胸を躍らせ、目を輝かせる場所とはどこだろうか。
(一耕社・斉藤彩加)