かつての高校球児たちが、世代を超えたOB戦を阪神甲子園球場を舞台に繰り広げる「マスターズ甲子園」を、この地に根付かせる先駆的な役割を担った。自らが発起人となって立ち上げた道央支部は、今年で10周年を迎えた。
戦後の1950(昭和25)年に厚真村(現厚真町)で出生。地元の小中学校を経て進学した苫小牧工業高では厳しい練習で大半の部員が退部していく中、2年時は右足のけがで半年の離脱を余儀なくされたが、主に二塁手や三塁手として3年間をやり遂げた。卒業後も「大好きな野球を続けたい」と大昭和製紙富士(静岡県)のテスト生として推薦を受けて硬式野球部へ入部、同社鈴川工場に入社した。十二指腸潰瘍、腎臓病を患って翌年から準硬式、軟式に転向したが、72年にオイルショックの影響でチームがなくなるまで在籍した。
仕事では、実家の自動車整備工場で働いた経験を生かして、自動車メーカーに転職。業績を挙げ、全社表彰を何度も受けてきた。この間、3人の子どもにも恵まれ、長男、次男は少年野球チーム「美園スラッガーズ」に入団。自身はコーチとして携わるようになった。当時はまだ熱血指導のど真ん中の時代。「次のステップに送り出すのが少年野球。(監督の)ゴリゴリを押さえるのが俺の役目だった」と振り返る。アメとムチを使い分けながら、監督を支えて強豪チームの礎をつくった。2人の息子は後に駒大苫小牧高に進み、自分は野球部を支える「深紅の会」として携わった。
その傍らでマスターズ甲子園と出合った。関係者から「(当時)道内にOBチームは1チームしかない。何とか北海道で予選大会をできないか」と口説かれ、2014年に道央支部を立ち上げ、普及イベントなどを通じて母校の苫工をはじめ、苫小牧東高、駒大苫小牧高と徐々に輪を広げていった。地道な努力が実を結び、18年には大会参加の条件を満たす道内で8チームをそろえ、初めて予選大会を開催。同年11月には北海道選抜を引っさげて、長男とともに甲子園のグラウンドでプレーした。「足を踏み入れた瞬間、こんなにでかいんだなって。スタンドでは何度も見ていたんだけど」と驚きと当時の感激を今でも覚えている。
子どもたちの指導に当たり、気が付けば30年以上の月日が流れた。定年退職後に開業した整体の知識、技術を生かして体の使い方も含めて指導する。「プロや高校のまねをして、『膝が痛い』『腰が痛い』と来る子もいる。理解しないでやると、大きなけがにつながる」と注意してきた。2年ほど前に病気で14キロ痩せ、「50代くらいのつもりでやってきたけど、ようやく年相応になったな」と笑う。新たなシーズンは一線を退くつもりだが、「時間がある時には顔を出したい」と子どもたちにほほ笑みのまなざしを向ける。(石川鉄也)
◇◆ プロフィル ◇◆
蔵重俊男(くらしげ・としお) 1950(昭和25)年6月、旧厚真村(現厚真町)生まれ。69年に苫小牧工業高校を卒業し、大昭和製紙鈴川工場へ入社。実家の蔵重自動車整備工場の勤務を経て、85年に当時の苫小牧スバルに入社し、定年まで勤めた。定年後の2013年につぼ療法・整体などを手掛ける「健康つぼいち」を開業。少年野球指導の傍ら、14年6月にマスターズ甲子園道央支部を立ち上げ、現在会長を務める。苫小牧市新明町在住。