厚真神社4代目宮司 黒澤壽紀さん(76) 神社再建最後の大仕事 被災乗り越えて 有志らと復旧に奔走

  • ひと百人物語, 特集
  • 2020年6月13日
被災を乗り越え、神社の再建に力を注ぐ黒澤さん
被災を乗り越え、神社の再建に力を注ぐ黒澤さん
旧厚真中の閉校記念誌の編集にも携わった(左から2人目)=1989年
旧厚真中の閉校記念誌の編集にも携わった(左から2人目)=1989年
ライオンズクラブの活動にも尽力した(右から3人目)=2010年代、門別競馬場
ライオンズクラブの活動にも尽力した(右から3人目)=2010年代、門別競馬場
厚真中時代の卒業写真から(最後列中央が黒澤さん)=1959年
厚真中時代の卒業写真から(最後列中央が黒澤さん)=1959年

  120年の長い歴史を誇る厚真神社で4代目宮司を務める。一昨年の胆振東部地震で社殿や社務所が全壊する憂き目に遭い、「波瀾(はらん)万丈でもなかったけれど、決して平たんでもなかったと思う。まさかこんなに大きな地震に遭遇するとは」としみじみ語る。「神社の再建を成し遂げるのが宮司としての役目」と自らに言い聞かせる。

   戦争真っただ中の1943(昭和18)年、6人きょうだいの3番目、長男として生まれた。子どもの頃から野球が好きで、成人になって厚真に戻ってからは地元の仲間と共に「球遊会」を結成し、白球を追い掛けた。親戚が夏の甲子園に出場したときには家族を連れて現地まで駆け付け、声援を送った。それ以外にも中学校では柔道、高校時代はブラスバンドを経験。厚真に戻ってからは弓道も習った。ただ、「何をやっても長続きはしなかったな」と笑う。

   厚真神社に奉職した64年当時は、結婚式が年間40件ほどあり、七五三にはピークで50~60人が訪れた。「今の倍は人口もいたし、買い物もだいたい厚真でできた。苫小牧にイオンもなかったしね」と振り返る。

   85年に宮司となり、「神経、労力、頭を使った」という10年ごとの周年事業を3度、4度と経験してきた。その傍ら、苫小牧地区保護司会の保護司や厚真ライオンズクラブの会員として、青少年の指導や地域活動、他地域との交流にも精を出した。

   「やるだけのことはやった。後はのんびりと俳句や短歌を楽しみながら過ごそう」と、勇退を考えていた矢先だった。

   2018年9月6日、北海道全域を襲った大きな地震で厚真町は最大震度7を観測した。社殿内の柱が傾き、住居を兼ねた社務所も基礎がずれて被害を受けた。直径約50センチの柱が真っ二つに折れ、高さ6メートルほどの大鳥居は倒壊。幸い家族全員にけがはなく無事だったが、損害はあまりにも大きかった。

   「何とかここまで来たと思ったら。ショックもいいところだ」と嘆く。社殿の修復、解体した社務所の改築、神輿(みこし)殿の整備などで最低でも1億2000万円が見込まれたが、政教分離の原則などから直接の公的な支援は受けられない。自らの病気も重なって長期間の療養を強いられるなど、復旧までの道筋を立てるのは難しかった。

   しかし、神社を守ろうと有志が「厚真神社復旧復興奉賛会」を立ち上げてくれた。同会と協力し、町内の事業所回りに奔走し、インターネットを使うなどして多方面からの寄付金も募った。そのかいもあって、震災から1年半を経た今年3月に社務所の解体を終え、4月半ばからようやく本殿の復旧工事も始まった。

   本殿は早ければこの夏にも完成し、社務所も年内には完成する予定。「神社の復旧工事を無事に終えて、後進に道を譲りたい」。自らに課せられた最後の大仕事だ。

  (石川鉄也)

   黒澤 壽紀(くろさわ・としのり) 1943(昭和18)年8月、厚真町生まれ。厚真中学校を卒業後、宮城県の塩釜高校、神職養成所を経て厚真神社に奉職。85年から4代目宮司となり現職。96年から今年5月末までの24年間、苫小牧地区保護司会の保護司として活躍し、この春に藍綬褒章を受章。厚真ライオンズクラブの会員としても長年奉仕活動に当たっている。

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