1994年から再び苫小牧で教員生活を送ることになった。赴任先は西高校。私は女子バスケットボール部顧問に就いた。アイスホッケー部はあったが、全国唯一の高校女子部活動チーム「エンジェルス」のみで、男子の部は存在していなかった。
赴任1年目は女子アイスホッケー部監督の河原政吉教諭から頼まれ、同部のコーチも担った。放課後は体育館でバスケットボール部の指導に当たり、終わるとすぐエンジェルスの氷上練習に出向く目まぐるしい日々だった。
同時期に男子部OBがひっきりなしに私の元を訪れるようになった。「アイスホッケー部をつくってくれ」と懇願する。54年に創部した男子部は56年の第5回全国高校大会3位、66年の第15回大会では日光と決勝で戦い、準優勝を果たすなど市内屈指の強豪校だった。ただ、その後は部員数が徐々に減り75年2月の道南新人リーグを最後に表舞台から姿を消していた。
男子の部を受け持ちたい気持ちはあったが、当時からアイスホッケー競技者の減少は著しく、男子部再興はあまりにも時代に逆行すると感じていた。OBたちの切なる願いを聞き流している自分がいた。
女子ホッケー部コーチ専属になったのが95年。翌年の96年、体育指導をしていた際に一人の男子生徒が目に留まった。とても真面目な好青年だが、学校になじめず休みがちになっていた。不安をほどこうと、よく会話をするようになった。ある日、「何か夢はないか」と質問してみた。返ってきた言葉は「アイスホッケーがしたい」。男子部再興の決め手になる一言だった。
彼の名は佐藤章一。父の彰さんは苫小牧東高アイスホッケー部出身で、法政大から国土計画に進んだ名選手だった。私が小学生のときに学校リンクで一緒に遊んでくれた人。人数が集まらなくてもいい。章一が卒業するまでは夢をかなえてやりたいと、97年4月に2年生の彼と1年生の競技経験者2人で愛好会を結成。6月には生徒がもう1人見つかり、会員3人以上とする校内規定をクリアして同好会に昇格した。
3人の氷上練習参加を快諾してくれた女子部の協力はもちろん、苫小牧民報の記事で活動を知った苫小牧南高時代のアイスホッケー部の教え子たちが、「うちの社会人チームの練習試合に連れてきてください」とよく声を掛けてくれた。競技を通じた多くの支えに感謝しながら、生徒たちは伸び伸び成長していった。
(構成・北畠授)